第13話「敵対的買収からの業務提携」
スラムの路地裏に建つサキ薬局の店内は、異様な緊張感に包まれていた。
つい数十分前まで、二日酔いの吐き気で地面を這いつくばっていたドワーフの豪商、カルラ。彼女は今、私の処方した「特製経口補水液」と「ウコンもどきの奇跡の粉」によって完全に体調を回復させ、スラムの簡素な木製カウンターを挟んで私と向かい合って座っていた。
彼女の背後には、いかつい護衛たちがずらりと並び、こちらの背後では、ロッツが大剣を構えていつでも斬りかかれるように殺気を放っている。シエナちゃんは私の後ろの棚の陰で、不安そうにこちらの様子を窺っていた。
「……さて。先ほどは取り乱してすまなかったね、サキ店長。改めまして、カルラ商会の代表、カルラだ」
「ご丁寧にどうも。サキ薬局の店主、サキよ。それで? さっきの『手を組まないか』って話の続きを聞かせてもらおうかしら」
私が腕を組んで先を促すと、カルラは懐からスッと一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、カウンターの上に広げた。
そこには、この世界の共通語でびっしりと細かい文字が書き込まれていた。
「単刀直入に言おう。君の作る薬の効能は、もはや薬師ギルドの泥水ポーションとは比べ物にならない。私の商会が持つ独自の流通ネットワークを使えば、この街だけでなく、王都や他国の富裕層にまで君の薬を売り捌くことができる。だから、我がカルラ商会と『専属契約』を結んでほしい」
「専属契約ね。具体的には?」
「簡単な話だ。サキ薬局の経営権と、君の持つ全ての薬の『製法』を我が商会に譲渡してもらう。代わりに、君にはカルラ商会の『筆頭薬師』としての地位と、毎月金貨五十枚の固定給を保証しよう。さらに、薬の売り上げの五パーセントをインセンティブとして君に支払う。どうだ? スラムの路地裏で細々と小銭を稼ぐより、よっぽど安定して豊かな生活が送れるぞ」
カルラは自信満々の笑みを浮かべた。
確かに、この世界の相場からすれば、毎月金貨五十枚の固定給というのは破格の待遇だ。スラムの住人なら一生遊んで暮らせるし、並の貴族よりも良い暮らしができるだろう。後ろで聞いていたロッツが「き、金貨五十枚の固定給ゥ!?」と素っ頓狂な声を上げているのがその証拠だ。
しかし。
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で『前世のブラック企業のハゲタカ薬局長』の顔がフラッシュバックした。
『千川さん、君を薬局長候補として迎え入れたい。毎月固定給をたっぷり出すし、売上が上がればボーナスも出すからさ。だから、みなし残業代込みのこの契約書にサインしてよ』
あの時、社会に出たばかりの無知な私は、その甘い言葉に乗せられてサインしてしまった。結果、待っていたのは「固定給だからどれだけ働かせても残業代ゼロ」「レシピ(調剤の効率化ノウハウ)は全て会社のもの」「辞めたくても辞められない奴隷契約」という地獄の日々だったのだ。
死ぬ気で労働基準法と契約法を勉強したのは、過労死する直前のことだった。
「……ふっ、ふふふふっ」
私は、羊皮紙を見つめながら、低い声で笑い出した。
「な、なんだ? 何がおかしい」
「ごめんなさいね、カルラ社長。あんたの提示した条件があまりにも『テンプレ通りの搾取契約』だったから、つい昔のトラウマを思い出して笑っちゃったのよ」
私は羊皮紙を指先でトントンと叩き、カルラを冷ややかに見据えた。
「悪いけど、この契約書、ツッコミどころが多すぎてお話にならないわ。まず、第三条第二項。『サキ薬局の経営権及び、新薬の製法に関する一切の権利はカルラ商会に帰属する』。……これ、事実上の『敵対的買収』じゃない。私の知的財産を全部奪い取って、私をただの『薬を作る機械』にする気満々よね?」
「知財……? なんだその言葉は。私は君の生活を安定させてやると……」
「安定? それは『飼い殺し』って言うのよ。続いて第七条第一項。『サキはカルラ商会の許可なく、独自の判断で他者へ薬を販売、または譲渡してはならない』。……冗談じゃないわ。これにサインしたら、私は目の前でシエナちゃんやスラムの子供たちが病気で苦しんでいても、あんたの許可が下りるまで薬を渡せなくなるじゃない。命を天秤にかけて商売する気はないわ」
私が立て板に水のごとく契約書の『罠』を指摘していくと、カルラの顔から余裕の笑みがスゥッと消え失せた。
「さらに極めつけは第十一条。『本契約の解除には、商会側の合意と、違約金として金貨五百枚の支払いを要する』。……これ、完全な『奴隷契約』じゃないの。私を一生飼い殺しにして、もし私が逃げ出そうとしたら莫大な借金を背負わせる。固定給の金貨五十枚なんて、いつでもあんたのさじ加減で減額できるような抜け穴も、第五条のただし書きにバッチリ仕込んであるわね」
「なっ……!?」
カルラはガタッと立ち上がり、信じられないものを見るような目で私を凝視した。
無理もない。この世界の、しかもスラムの路地裏にいるような若い小娘が、商人が練りに練った複雑な契約書の『裏の意図』を一瞬で見抜き、論破してくるなど夢にも思っていなかったのだろう。
「き、貴様……本当にただの薬師なのか? なぜ、そこまで商法の裏を読み解ける……!」
「言ったでしょ。私は酸いも甘いも噛み分けた現役薬剤師よ。この程度のブラック契約書、前世で嫌というほど見飽きてるの」
私は羊皮紙を丸めて、カルラの胸元にポーンと投げ返した。
「悪いけど、お断りよ。私は『定時退社』と『自分の自由になる巨万の富』を求めて起業したの。誰かの下で社畜になる気は毛頭ないわ。おとなしく帰りなさい」
交渉決裂。
ロッツが大剣を構え直し、護衛たちも武器に手をかける。一触即発の空気が店内に張り詰めた。
だが、カルラは丸められた羊皮紙を握りしめたまま、うつむき、そして――。
「……くっ、くくくっ。あっはっはっはっはっ!!」
突如として、腹の底から愉快そうに大笑いし始めたのだ。
「お嬢様!?」
「いいぞ、サキ! お前、本当に面白い女だな!」
カルラは護衛たちを手で制し、再びドカッと椅子に座り直した。その瞳には、先ほどまでの「相手を見下した商人」の目はなく、完全に対等な「好敵手」を見るギラギラとした光が宿っていた。
「私の抱える専属の法務係(契約書作成のプロ)が三日徹夜して作った奴隷契約書を、こうもあっさりと、それも数秒で看破されるとはな。見事だ。お前の言う通り、私はお前の持つ『知識』を安く買い叩いて独占しようとしていた。謝罪しよう」
「謝罪だけならタダよ。で、どうするの? 力ずくで私を攫う?」
「馬鹿を言え。そんなことをすれば、あの筋肉ダルマ(バド)をはじめとする冒険者どもが、私の商館に火を放ちに来るだろうさ。それに、お前のようなキレ者を無理やり従わせても、まともな薬を作るはずがない」
カルラはテーブルに身を乗り出し、ニヤリと笑った。
「条件を変えよう。対等な『業務提携』だ」
「ほう。言ってみなさい」
「サキ薬局の経営権と、薬の製法の権利は、お前が持ったままでいい。その代わり、私の商会を『独占販売代理店』に指名してくれ。お前が作った薬は、全てカルラ商会を通して市場に流通させる。これなら、お前の自由は守られるし、私は高品質な薬を独占的に売る権利を得られる」
私は顎に手を当てて考え込んだ。
悪くない提案だ。私が今直面している最大の課題は「生産と流通の限界」だ。スラムの店舗だけでチマチマ売っていても、大きな富には繋がらない。カルラ商会の物流網と販売網を使えば、王都や他の大陸にまでサキ薬局のブランドを展開できる。
「……代理店契約ね。じゃあ、利益の分配はどうするの? あんたのことだから、流通マージンでガッツリ抜く気なんでしょ?」
「当然だ。私の方で輸送費、保管費、販売の営業コストを全て負担するのだからな。売上の七割は私がいただく。お前には三割だ」
「却下。五分五分よ」
私が即答すると、カルラは眉を吊り上げた。
「無茶を言うな! 五分五分ではこちらの流通コストが割に合わん! いくら薬が良くても、売るためのインフラには莫大な金がかかってるんだぞ!」
「あら、そう? じゃあ、こうしましょうか。あんたが私の薬の販売を独占する代わりに、私には『最高品質の材料』を、カルラ商会の仕入れ値(原価)で卸しなさい。そうすれば私の製造コストは激減するわ。利益の配分は六対四。あんたが六、私が四よ。これならお互いに美味しいでしょ?」
私の逆提案に、カルラは唸り声を上げた。
原価での材料提供。これは商人にとって身を切るような条件だが、その分、サキ薬局からの薬の生産量は飛躍的に上がり、結果としてカルラ商会に入ってくる利益(六割)も莫大なものになる。
「……くそっ、お前、本当にスラムの薬屋か? 王都の老練な大商人と交渉しているような気分だ。……わかった。利益は六対四。材料は原価で提供しよう」
「よし、基本契約はそれで決まりね」
「だがな、サキ」
カルラは鋭い眼光を放ち、決定的な一打を打ってきた。
「冒険者向けの傷薬や、さっきの二日酔いの薬だけじゃ、市場のパイには限界がある。金を持たない冒険者からいくら小銭を巻き上げても、真の大富豪にはなれんぞ。カルラ商会が全力でバックアップする以上、王都の『富裕層』や『貴族』から、金貨を雨のように降らせるような、目玉となる新商品が必要だ」
カルラの言う通りだった。
薄利多売の医療インフラだけでは限界がある。大富豪になるためには、金に糸目をつけない富裕層向けの「高付加価値商品」が必要不可欠なのだ。
「富裕層向けの、高付加価値な新商品ね……」
私はクスッと笑い、カウンターの奥から一つの小瓶を取り出した。
それは、シエナちゃんが摘んできた『酸食草(高濃度ビタミンC)』の抽出液と、スライムの粘液(ヒアルロン酸に似た保水成分)、そして私が蒸留した純水と微量のアルコールを完璧な比率でブレンドした、透明でとろみのある液体だった。
「カルラ社長。あんた、商売柄、王都の貴族の奥様方や、裕福な女性商人たちと付き合いがあるわよね?」
「ああ。連中は見栄と権力闘争に明け暮れていて、常に他者より美しくあろうと必死だ。それがどうかしたか?」
「その奥様方って、何に一番お金を使うと思う? 健康? 権力? 違うわ。『若さと美しさ』よ」
私が小瓶をコトッとカウンターに置くと、カルラはいぶかしげにそれを見つめた。
「これがなんだと言うんだ。ただの水にしか見えないが」
「これはね、現代化学の結晶。『特製・高濃度ビタミンC美容液』よ」
「びようえき……?」
「そう。この世界の女性は、お化粧で強い顔料を肌に塗りたくったり、香水で体臭を誤魔化したりしてるだけで、『肌の基礎』を根本から改善するっていう概念がないわ。日焼けや乾燥で肌がボロボロになってる奥様も多いはずよ」
私は小瓶の蓋を開け、カルラの手の甲にその液体を数滴垂らした。
「ちょっと肌に馴染ませてごらんなさい」
カルラは半信半疑のまま、反対の指で手の甲の液体をくるくると塗り広げた。
その瞬間。
「なっ……!?」
カルラが息を呑んだ。
スライム粘液の驚異的な保水力が、瞬時に角質層の奥深くまで浸透し、ガサガサだったドワーフの肌に、赤ちゃんのようなモチモチとした潤いと弾力を与えたのだ。さらに、高濃度ビタミンCが肌を引き締め、ワントーン明るい透明感を引き出している。
「な、なんだこれは……!? 水が、肌に吸い込まれていく……! しかも、全くベタつかないどころか、触り心地が絹のように滑らかに……っ!」
「それが『保湿』と『ターンオーバーの正常化』よ。これを毎晩顔に塗って寝れば、一週間後にはシワが薄くなり、肌のくすみが消えて、十歳は若返ったように見えるわ。どんな魔法のポーションにも、こんな肌質改善の効果はないでしょ?」
私の説明を聞くカルラの目が、これまでにないほど見開かれ、そして、恐怖すら感じるほどの強烈な「商人の欲望」に支配されていくのがわかった。
「……売れる。いや、違う。これは……『狂う』ぞ」
カルラは震える声で呟いた。
「貴族の女どもは、美しさのためなら領地を売ってでも金を出す。この効果を一度でも知ってしまえば、彼女たちはもう二度と、この液体なしでは生きていけなくなる……! これを美しい瑠璃色のガラス瓶に詰め、法外な値段をつけて『限られた貴族しか手に入らない幻の霊薬』として売り出せば……サキ! 王都の富が、すべて我々の手の中に転がり込んでくるぞ!!」
「そういうこと。これで、カルラ商会と組むメリット、お互いに十分でしょ?」
私がニヤリと笑うと、カルラは立ち上がり、私に向かって力強く右手を差し出した。
「ああ、完璧だ。君という恐ろしい劇薬に出会えた幸運に、心から感謝するよ。サキ薬局とカルラ商会の、永遠の利益に乾杯だ!」
「ええ。契約成立ね。これからの材料の調達と物流、期待してるわよ、カルラ社長」
私はカルラの小さな、しかし力強い手をガッチリと握り返した。
スラムの路地裏で交わされた、現代の社畜薬剤師と異世界の豪商による、この世界で最も強欲で、最も強力なビジネスパートナーシップが結ばれた瞬間だった。
こうして、敵対的買収(兵糧攻め)という最大のピンチは、私の交渉術と化学の知識によって最高のチャンスへと変貌を遂げた。
カルラという強力な後ろ盾(と資金源、流通網)を手に入れたサキ薬局は、もはや冒険者ギルド裏の小さな露店ではない。王国全土を巻き込む巨大な『製薬ネットワーク』への第一歩を踏み出したのだ。
しかし、商売敵であるドワーフを取り込んだことで、既得権益を脅かされた「薬師ギルド」本部は、いよいよ本気でサキ薬局を潰しにかかることになる。
彼らが次に送り込んでくるのは、チンピラでも商人でもない。
神の奇跡に近い魔法を操り、「魔法こそ至高、泥臭い調合など野蛮な行為」と見下す、プライドの塊のような『エルフの魔法使い』であった。
だが、私に言わせれば、魔法などという非論理的な現象は、私の『化学式』の前ではただの便利なガスバーナーに過ぎないのだということを、彼らはまだ知らないのだった。




