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夜想館  作者: 灯野 しおん
第一夜

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8/22

春雨-雨宮紗季⑦

食堂には静寂が戻っていた。


 さっきまで悠真が立っていた場所へ、

 朝日だけが差し込んでいる。


 紗希はしばらく動けなかった。


 胸が痛い。


 寂しい。


 会いたい。


 きっとこれからもそう思う。


 何年経っても。


 それでも。


 不思議と絶望はなかった。


 悠真が最後に残してくれた言葉が、

 胸の奥に灯りのように残っていたから。


 ――未来を見ろ。


 紗希はゆっくり息を吐いた。


 窓の外では、

 雨粒をまとった若葉が朝日に輝いている。


 春の匂いがした。


 その時。


「おはようございます」


 静かな声が聞こえた。


 振り返る。


 食堂の入口に朔弥が立っていた。


 白いシャツ。


 黒いベスト。


 相変わらず穏やかな表情。


 けれど。


 どこかすべてを知っているような目だった。


「……おはようございます」


 紗希は小さく頭を下げる。


 朔弥はそれ以上何も聞かなかった。


 何があったのか。


 誰に会ったのか。


 そんなことは一切。


 ただ静かに言う。


「朝食の準備ができています」


 テーブルには、


 焼きたてのパン。


 卵料理。


 サラダ。


 そしてサイフォンで淹れられた珈琲。


 湯気が静かに立ち上っている。


 紗希は席についた。


 昨夜から何も食べていなかったことに気づく。


 ひと口パンを食べる。


 温かい。


 ただそれだけで、

 少し泣きそうになった。


 朔弥は少し離れた場所で、

 珈琲を注いでいる。


 ガラスの器具から聞こえる小さな音。


 それがなぜか心地よかった。


「……あの」


 紗希が声を掛ける。


 朔弥は顔を上げた。


「はい」


「ここは……何なんですか?」


 ずっと聞きたかったことだった。


 朔弥は少し考えるように窓の外を見る。


 朝の光。


 雨上がりの庭。


 そして静かに答えた。


「人生の雨宿りをする場所です」


 紗希は目を瞬く。


 朔弥は微笑んだ。


「長く雨に打たれた方が、

 少しだけ休むための場所です」


 それ以上は語らない。


 けれど。


 その言葉だけで十分だった。


 紗希は珈琲へ目を落とす。


 黒い水面に朝日が映っている。


 人生の雨宿り。


 そう考えると、

 昨夜の出来事が少しだけ腑に落ちた。


 やがて朝食を終える。


 朔弥は宿帳を閉じた。


 ぱたん、と静かな音。


 旅立ちの合図のようだった。


 紗希は鞄から一冊の本を取り出す。


 何度も読んだ小説。


 悠真と感想を語り合った本。


「宿代です」


 朔弥は両手で受け取る。


 大切なものを扱うように。


「確かにお預かりします」


 紗希は立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 扉の向こうには、

 晴れた朝が待っていた。


 もう雨は降っていない。


 新しい一日の始まりだった。


 そして紗希は、

 夜想館を後にする。


 悲しみを置いていくのではない。


 悲しみごと抱えて。


 それでも未来へ歩いていくために。

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