春雨-雨宮紗季⑦
食堂には静寂が戻っていた。
さっきまで悠真が立っていた場所へ、
朝日だけが差し込んでいる。
紗希はしばらく動けなかった。
胸が痛い。
寂しい。
会いたい。
きっとこれからもそう思う。
何年経っても。
それでも。
不思議と絶望はなかった。
悠真が最後に残してくれた言葉が、
胸の奥に灯りのように残っていたから。
――未来を見ろ。
紗希はゆっくり息を吐いた。
窓の外では、
雨粒をまとった若葉が朝日に輝いている。
春の匂いがした。
その時。
「おはようございます」
静かな声が聞こえた。
振り返る。
食堂の入口に朔弥が立っていた。
白いシャツ。
黒いベスト。
相変わらず穏やかな表情。
けれど。
どこかすべてを知っているような目だった。
「……おはようございます」
紗希は小さく頭を下げる。
朔弥はそれ以上何も聞かなかった。
何があったのか。
誰に会ったのか。
そんなことは一切。
ただ静かに言う。
「朝食の準備ができています」
テーブルには、
焼きたてのパン。
卵料理。
サラダ。
そしてサイフォンで淹れられた珈琲。
湯気が静かに立ち上っている。
紗希は席についた。
昨夜から何も食べていなかったことに気づく。
ひと口パンを食べる。
温かい。
ただそれだけで、
少し泣きそうになった。
朔弥は少し離れた場所で、
珈琲を注いでいる。
ガラスの器具から聞こえる小さな音。
それがなぜか心地よかった。
「……あの」
紗希が声を掛ける。
朔弥は顔を上げた。
「はい」
「ここは……何なんですか?」
ずっと聞きたかったことだった。
朔弥は少し考えるように窓の外を見る。
朝の光。
雨上がりの庭。
そして静かに答えた。
「人生の雨宿りをする場所です」
紗希は目を瞬く。
朔弥は微笑んだ。
「長く雨に打たれた方が、
少しだけ休むための場所です」
それ以上は語らない。
けれど。
その言葉だけで十分だった。
紗希は珈琲へ目を落とす。
黒い水面に朝日が映っている。
人生の雨宿り。
そう考えると、
昨夜の出来事が少しだけ腑に落ちた。
やがて朝食を終える。
朔弥は宿帳を閉じた。
ぱたん、と静かな音。
旅立ちの合図のようだった。
紗希は鞄から一冊の本を取り出す。
何度も読んだ小説。
悠真と感想を語り合った本。
「宿代です」
朔弥は両手で受け取る。
大切なものを扱うように。
「確かにお預かりします」
紗希は立ち上がった。
玄関へ向かう。
扉の向こうには、
晴れた朝が待っていた。
もう雨は降っていない。
新しい一日の始まりだった。
そして紗希は、
夜想館を後にする。
悲しみを置いていくのではない。
悲しみごと抱えて。
それでも未来へ歩いていくために。




