幕間 書斎
玄関の扉が静かに閉まった。
朝の光が差し込むロビーには、
もう誰の姿もない。
朔弥はしばらく扉を見つめていた。
旅立つ背中は、
いつ見ても少しだけ寂しい。
けれど。
今朝の紗希は、
夜想館へ来た時とは違う顔をしていた。
それで十分だった。
黒猫が音もなく現れる。
いつの間に来たのか、
玄関脇で毛づくろいをしている。
「ご苦労さまでした」
朔弥が言うと、
黒猫はちらりと金色の瞳を向けた。
もちろん返事はない。
朔弥は小さく微笑む。
そして書斎へ向かった。
重厚な扉を開く。
紙とインクの香り。
古い本たちの匂い。
朝の静かな光。
本棚には、
数え切れないほどの本が並んでいる。
一冊一冊が、
夜想館を訪れた人々の物語。
朔弥は新しい本を手に取った。
深い藍色の表紙。
昨夜まで存在しなかった本。
背表紙には、
『雨宮 紗希』
と刻まれている。
朔弥は静かに棚へ収めた。
本たちの間へ、
自然に溶け込むように。
すると。
ぱらり、と。
どこからか紙の音がした。
朔弥が振り返る。
本棚の一番奥。
そこには一冊だけ、
題名のない本が置かれていた。
古い革表紙。
長い年月を経た本。
誰も手に取らない本。
いや。
手に取れない本。
黒猫が本棚へ飛び乗る。
そして、
その本の前へ座った。
金色の瞳が、
まっすぐ朔弥を見ている。
朔弥は目を伏せた。
「まだですよ」
小さく呟く。
黒猫は瞬きひとつしない。
まるで。
その言葉を信じていないみたいに。
窓の外では、
雨上がりの風が若葉を揺らしていた。
新月は終わった。
次の客が来るまで、
しばらく時間がある。
けれど。
朔弥は気づいていなかった。
遠く離れた金沢の町で。
一人の女性が、
静かな雨の中を歩いていることを。
そしてその足元を。
一匹の黒猫が、
ゆっくりと先導していることを。




