春雨 ー 雨宮 紗希⑥
二人はゆっくり食堂へ向かった。
暖炉には小さな火が残っている。
昨夜、朔弥が用意してくれた夕食の余韻がまだそこにあった。
誰もいない食堂。
静かなテーブル。
窓の向こうでは雨が少し弱くなっていた。
紗希は椅子へ腰掛ける。
悠真は向かい側に座った。
以前なら当たり前だった光景。
それなのに。
今は一秒一秒が愛おしかった。
「そういえば」
悠真が笑う。
「結局、あの指輪見てないな」
紗希は目を瞬く。
「え?」
「持ってるんだろ」
鞄の中。
ずっと持ち歩いていた小さな箱。
紗希は震える手で取り出した。
何度も開こうとして、
開けられなかった箱。
静かに蓋を開く。
銀色の指輪が灯りを映した。
悠真は目を細める。
「綺麗だな」
「……うん」
「紗希らしい」
その言葉だけで胸がいっぱいになる。
悠真は少し笑った。
「ありがとう」
「え?」
「選んでくれて」
紗希は首を振る。
「違うよ」
声が震える。
「私の方こそ……」
言葉が続かない。
ありがとう。
ごめんね。
会いたかった。
全部言いたいのに、
どれも足りない気がした。
悠真は静かに頷く。
それだけで十分だと伝えるみたいに。
その時。
どこかで時計が鳴った。
ぼうん、と低い音。
一回。
二回。
三回。
夜想館の空気が少し変わる。
窓の外。
東の空がわずかに白み始めていた。
紗希の胸が締め付けられる。
分かってしまった。
時間だ。
「……もう?」
掠れた声。
悠真は穏やかに微笑む。
「うん」
雨は止んでいた。
代わりに朝の光が少しずつ館へ入り始める。
紗希は唇を噛む。
嫌だった。
せっかく会えたのに。
また別れるなんて。
けれど。
今度は少し違う。
昨夜ここへ来た時の絶望とは違う。
悲しい。
寂しい。
それでも。
もう立ち止まったままではいられない。
悠真が立ち上がる。
紗希も続く。
二人は食堂の窓辺に並んだ。
朝焼けが雨上がりの空を染めている。
「紗希」
「うん」
「幸せになれよ」
その言葉に。
紗希は思わず笑ってしまった。
「それ、ずるい」
「そうか?」
「うん」
涙が零れる。
けれど。
今度の涙は少しだけ温かかった。
悠真は困ったように笑う。
いつもの顔。
大好きだった顔。
そして。
「未来を見ろ」
静かな声で言った。
「俺じゃなくて」
朝日が差し込む。
柔らかな光が悠真を包む。
紗希は泣きながら頷いた。
「……うん」
「約束だぞ」
「うん」
何度も。
何度も頷く。
その姿を見て。
悠真は安心したように目を細めた。
そして。
朝の光の中へ静かに溶けていった。




