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夜想館  作者: 灯野 しおん
終夜

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春を待つ人たち②

 東の空が白み始めていた。


 夜想館を包んでいた夜が、


 少しずつほどけていく。



 朔弥は書斎に立っていた。


 机の上には、


 『春を待つ人たち』。


 最後の頁。


 百年間開かなかった頁。



 窓の外で桜が揺れる。


 風は穏やかだった。


 優しい春の風。


 まるで誰かが背中を押してくれるような。


 朔弥はゆっくり頁へ視線を落とす。


 文字が増えていた。


 先ほどまでなかった文字が。



 あなたは約束を守りました


 百年間


 誰かの悲しみに寄り添い


 誰かの春を待ち続けました



 朔弥は息を呑む。


 震える指先で頁に触れる。


 温かかった。


 まるで。


 誰かの手の温もりが残っているように。


 文字は続く。


 だから


 もう自分を許してください


 その一文で。


 朔弥は動けなくなった。


 許す。


 誰を。


 自分を。



 百年間。


 朔弥は自分を責め続けていた。


 咲希を救えなかったこと。


 何もできなかったこと。


 あの日。


 病室で泣くことしかできなかったこと。


 もし自分がもっと早く医者を呼んでいたら。


 もしあの日庭へ出さなければ。


 もし。


 もし。


 もし。



 百年間積み重ねてきた後悔。


 それが。


 今になって胸の奥から溢れ出してくる。


「違う」


 掠れた声が漏れる。


「私は」


「守れなかった」


 誰に向かって言ったのか分からない。


 頁にか。


 咲希にか。


 自分自身にか。



 すると。


 最後の頁に、


 新しい文字が浮かび上がった。


 いいえ


 その一言だけ。


 続いて。


 私は幸せでした



 朔弥の目から涙が零れる。


 その字は。


 見間違えるはずがなかった。


 咲希の字だった。


 優しく。


 柔らかく。


 春の日差しのような字。



 さらに文字が現れる。


 恒星さんも


 あなたも


 たくさん悲しみました


 だから


 もう大丈夫です


 涙が止まらない。


 百年間。


 一度も泣かなかった分まで。



 暖炉の火が揺れる。


 窓の外で鳥が鳴く。


 朝が来る。


 本当に。


 ようやく。


 その時だった。


 ふいに。


 書斎の扉が開く音がした。


 風ではない。


 誰かが開けた音だった。



 朔弥は振り返る。


 そこには誰もいない。


 はずだった。


 朝の光の中。


 ほんの一瞬だけ。


 見えた気がした。



 桜色の着物を着た女性。


 その隣に立つ青年。


 二人並んで。


 穏やかに笑っている。


 咲希。


 そして。


 恒星。


 二人は何も言わない。


 ただ。


 幸せそうに微笑んでいる。



 それだけで十分だった。


 言葉なんていらなかった。


 百年分の想いは、


 その笑顔だけで伝わった。


 やがて。


 二人の姿は春の光へ溶けていく。


 桜の花びらのように。


 静かに。


 穏やかに。


 最後に。


 咲希が小さく手を振った気がした。


 恒星も笑っていた。


 あの頃のまま。


 朔弥は深く頭を下げる。


 涙を流しながら。


 感謝を込めて。


 別れを込めて。


 そして。


 祝福を込めて。



 顔を上げた時には、


 もう誰もいなかった。


 残っていたのは。


 窓から差し込む朝日と。


 満開になった桜だけだった。

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