春を待つ人たち②
東の空が白み始めていた。
夜想館を包んでいた夜が、
少しずつほどけていく。
◇
朔弥は書斎に立っていた。
机の上には、
『春を待つ人たち』。
最後の頁。
百年間開かなかった頁。
◇
窓の外で桜が揺れる。
風は穏やかだった。
優しい春の風。
まるで誰かが背中を押してくれるような。
朔弥はゆっくり頁へ視線を落とす。
文字が増えていた。
先ほどまでなかった文字が。
◇
あなたは約束を守りました
百年間
誰かの悲しみに寄り添い
誰かの春を待ち続けました
◇
朔弥は息を呑む。
震える指先で頁に触れる。
温かかった。
まるで。
誰かの手の温もりが残っているように。
文字は続く。
だから
もう自分を許してください
その一文で。
朔弥は動けなくなった。
許す。
誰を。
自分を。
◇
百年間。
朔弥は自分を責め続けていた。
咲希を救えなかったこと。
何もできなかったこと。
あの日。
病室で泣くことしかできなかったこと。
もし自分がもっと早く医者を呼んでいたら。
もしあの日庭へ出さなければ。
もし。
もし。
もし。
◇
百年間積み重ねてきた後悔。
それが。
今になって胸の奥から溢れ出してくる。
「違う」
掠れた声が漏れる。
「私は」
「守れなかった」
誰に向かって言ったのか分からない。
頁にか。
咲希にか。
自分自身にか。
◇
すると。
最後の頁に、
新しい文字が浮かび上がった。
いいえ
その一言だけ。
続いて。
私は幸せでした
◇
朔弥の目から涙が零れる。
その字は。
見間違えるはずがなかった。
咲希の字だった。
優しく。
柔らかく。
春の日差しのような字。
◇
さらに文字が現れる。
恒星さんも
あなたも
たくさん悲しみました
だから
もう大丈夫です
涙が止まらない。
百年間。
一度も泣かなかった分まで。
◇
暖炉の火が揺れる。
窓の外で鳥が鳴く。
朝が来る。
本当に。
ようやく。
その時だった。
ふいに。
書斎の扉が開く音がした。
風ではない。
誰かが開けた音だった。
◇
朔弥は振り返る。
そこには誰もいない。
はずだった。
朝の光の中。
ほんの一瞬だけ。
見えた気がした。
◇
桜色の着物を着た女性。
その隣に立つ青年。
二人並んで。
穏やかに笑っている。
咲希。
そして。
恒星。
二人は何も言わない。
ただ。
幸せそうに微笑んでいる。
◇
それだけで十分だった。
言葉なんていらなかった。
百年分の想いは、
その笑顔だけで伝わった。
やがて。
二人の姿は春の光へ溶けていく。
桜の花びらのように。
静かに。
穏やかに。
最後に。
咲希が小さく手を振った気がした。
恒星も笑っていた。
あの頃のまま。
朔弥は深く頭を下げる。
涙を流しながら。
感謝を込めて。
別れを込めて。
そして。
祝福を込めて。
◇
顔を上げた時には、
もう誰もいなかった。
残っていたのは。
窓から差し込む朝日と。
満開になった桜だけだった。




