春を待つ人たち
夜は静かだった。
客室の灯りは消えている。
廊下も。
ラウンジも。
書斎も。
すべてが眠っている。
ただ一人。
朔弥だけが起きていた。
◇
机の上には、
『春を待つ人たち』。
そして。
『恒星手記』。
◇
百年。
長かった。
本当に長かった。
◇
朔弥は椅子に深く腰掛ける。
目を閉じる。
すると。
すぐに思い出す。
あの日を。
◇
大正十四年四月八日。
桜雨の日。
咲希が亡くなった日。
◇
恒星は間に合った。
最後の言葉も聞けた。
約束も交わせた。
けれど。
朔弥だけは違った。
◇
あの日以来。
ずっと心に残っていた言葉がある。
誰にも言えなかった言葉。
誰にも話さなかった言葉。
◇
咲希が意識を失う直前。
病室で。
ほんの数分だけ。
朔弥と二人きりになった時間があった。
◇
その時。
咲希は朔弥を見て、
微笑んだ。
とても優しく。
まるで。
全部分かっている人のように。
◇
「朔弥さん」
かすれた声。
今にも消えそうな声。
◇
「はい」
朔弥は答えた。
泣かないように。
必死に。
◇
「お願いがあります」
その言葉を、
朔弥は百年間忘れられなかった。
◇
「お願い……ですか」
咲希は頷いた。
小さく。
静かに。
◇
「もし」
「もし誰かが」
「悲しくて前に進けなくなったら」
「その人の隣にいてあげてください」
◇
朔弥は息を呑む。
その願いは。
恒星のためだと思った。
当然だと思った。
◇
だが。
咲希は続けた。
◇
「恒星さんだけじゃなくて」
「誰でも」
「知らない人でも」
「一人で泣いている人でも」
◇
「春を待っている人を」
「独りにしないでください」
◇
朔弥は返事ができなかった。
胸が苦しかった。
◇
なぜなら。
その時初めて気づいたからだ。
咲希は最後まで、
自分のことではなく、
誰かの幸せを願っていたことに。
◇
「約束します」
やっと答えた。
震える声で。
◇
咲希は嬉しそうに笑った。
それが。
朔弥が見た最後の笑顔だった。
◇
目を開く。
書斎。
夜想館。
現在。
百年後。
◇
朔弥はゆっくり立ち上がる。
「そうか」
小さく呟く。
「私は」
◇
ずっと恒星を待っていたのではなかった。
咲希との約束を守り続けていたのだ。
◇
朝比奈湊も。
三浦美月も。
相川栞も。
高瀬蓮も。
夜想館を訪れたすべての人たちも。
◇
みんな。
春を待つ人だった。
悲しみの冬の中で。
立ち止まっていた人たちだった。
◇
そして。
その人たちを迎えることが、
自分に託された役目だった。
◇
その時。
夜明け前の空から、
柔らかな光が差し込んだ。
書斎の窓を通って。
『春を待つ人たち』を照らす。
◇
最後の頁が、
静かに開いた。
そこに現れた言葉を見て、
朔弥は立ち尽くした。
涙が溢れる。
止まらない。
百年分の涙だった。
頁に浮かんでいたのは――
『もう待たなくていい』
そしてその下に、
もう一行。
『春は来ています』




