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夜想館  作者: 灯野 しおん
終夜

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春を待つ人たち

夜は静かだった。


 客室の灯りは消えている。


 廊下も。


 ラウンジも。


 書斎も。


 すべてが眠っている。


 ただ一人。


 朔弥だけが起きていた。



 机の上には、


 『春を待つ人たち』。


 そして。


 『恒星手記』。



 百年。


 長かった。


 本当に長かった。



 朔弥は椅子に深く腰掛ける。


 目を閉じる。


 すると。


 すぐに思い出す。


 あの日を。



 大正十四年四月八日。


 桜雨の日。


 咲希が亡くなった日。



 恒星は間に合った。


 最後の言葉も聞けた。


 約束も交わせた。


 けれど。


 朔弥だけは違った。



 あの日以来。


 ずっと心に残っていた言葉がある。


 誰にも言えなかった言葉。


 誰にも話さなかった言葉。



 咲希が意識を失う直前。


 病室で。


 ほんの数分だけ。


 朔弥と二人きりになった時間があった。



 その時。


 咲希は朔弥を見て、


 微笑んだ。


 とても優しく。


 まるで。


 全部分かっている人のように。



「朔弥さん」


 かすれた声。


 今にも消えそうな声。



「はい」


 朔弥は答えた。


 泣かないように。


 必死に。



「お願いがあります」


 その言葉を、


 朔弥は百年間忘れられなかった。



「お願い……ですか」


 咲希は頷いた。


 小さく。


 静かに。



「もし」


「もし誰かが」


「悲しくて前に進けなくなったら」


「その人の隣にいてあげてください」



 朔弥は息を呑む。


 その願いは。


 恒星のためだと思った。


 当然だと思った。



 だが。


 咲希は続けた。



「恒星さんだけじゃなくて」


「誰でも」


「知らない人でも」


「一人で泣いている人でも」



「春を待っている人を」


「独りにしないでください」



 朔弥は返事ができなかった。


 胸が苦しかった。



 なぜなら。


 その時初めて気づいたからだ。


 咲希は最後まで、


 自分のことではなく、


 誰かの幸せを願っていたことに。



「約束します」


 やっと答えた。


 震える声で。



 咲希は嬉しそうに笑った。


 それが。


 朔弥が見た最後の笑顔だった。



 目を開く。


 書斎。


 夜想館。


 現在。


 百年後。



 朔弥はゆっくり立ち上がる。


「そうか」


 小さく呟く。


「私は」



 ずっと恒星を待っていたのではなかった。


 咲希との約束を守り続けていたのだ。



 朝比奈湊も。


 三浦美月も。


 相川栞も。


 高瀬蓮も。


 夜想館を訪れたすべての人たちも。



 みんな。


 春を待つ人だった。


 悲しみの冬の中で。


 立ち止まっていた人たちだった。



 そして。


 その人たちを迎えることが、


 自分に託された役目だった。



 その時。


 夜明け前の空から、


 柔らかな光が差し込んだ。


 書斎の窓を通って。


 『春を待つ人たち』を照らす。



 最後の頁が、


 静かに開いた。


 そこに現れた言葉を見て、


 朔弥は立ち尽くした。


 涙が溢れる。


 止まらない。


 百年分の涙だった。


 頁に浮かんでいたのは――


『もう待たなくていい』


 そしてその下に、


 もう一行。


『春は来ています』

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