最後の来客
夜想館に雨は降っていなかった。
けれど。
どこか雨上がりのような匂いがしていた。
春の夜だった。
◇
客はいない。
予約もない。
館は静かだった。
あまりにも静かで。
まるで誰かを待っているようだった。
◇
朔弥はラウンジの窓を閉める。
暖炉の火を確かめる。
椅子を整える。
百年間。
変わらず続けてきた夜の仕事。
それが終わると、
自然とため息が漏れた。
疲れていたのかもしれない。
百年分。
少しだけ。
◇
その時だった。
からん。
小さなベルの音が響く。
朔弥は顔を上げる。
玄関の方を見る。
誰かが入ってきた音。
確かに聞こえた。
「いらっしゃいませ」
いつものように言う。
だが。
返事はない。
◇
玄関へ向かう。
誰もいない。
扉も閉まっている。
風もない。
聞き間違いだろうか。
そう思った時。
今度は別の音がした。
かたり。
◇
ラウンジだった。
誰かが椅子を引いたような音。
朔弥は振り返る。
そして。
足を止めた。
◇
窓際の席。
いつも春になると陽が差し込む席。
その椅子が少しだけ引かれていた。
さっき整えたはずなのに。
誰も座っていない。
けれど。
なぜかそこに誰かがいるような気がした。
◇
春の香りがする。
桜の香り。
懐かしい香り。
朔弥はゆっくり近づく。
テーブルを見る。
そこには。
一枚の花びらが置かれていた。
桜だった。
夜風もないのに。
窓も閉まっているのに。
どこから来たのか分からない。
朔弥はその花びらを拾う。
指先へ乗せる。
柔らかい。
まるで今落ちたばかりのようだった。
すると。
ふいに。
誰かの声が聞こえた気がした。
とても遠く。
とても近く。
◇
男性の声。
穏やかな声。
少し照れたような声。
「ありがとう」
朔弥は目を見開く。
振り返る。
誰もいない。
館の中には自分しかいない。
◇
それなのに。
不思議と寂しくなかった。
むしろ。
長い旅を終えた誰かを見送ったような気持ちだった。
恒星。
その名前が胸に浮かぶ。
◇
百年間。
届かなかった言葉。
言えなかった言葉。
伝えられなかった感謝。
けれど今。
確かに聞こえた気がした。
朔弥は微笑む。
本当に久しぶりに。
肩の力を抜いて。
◇
「こちらこそ」
小さく呟く。
「ありがとう」
その瞬間。
館のどこかで本が開く音がした。
ぱらり。
書斎だった。
朔弥は足早に向かう。
机の上。
『春を待つ人たち』。
最後まで閉じられていた頁が、
ゆっくりと開いている。
◇
白かった頁に、
文字が浮かび上がる。
ひと文字ずつ。
ゆっくりと。
まるで夜明けのように。
朔弥は息を呑む。
百年間。
待ち続けた言葉。
見たかった言葉。
恐れていた言葉。
◇
窓の外を見る。
東の空がわずかに明るい。
長い夜が終わろうとしていた。
◇
桜が揺れる。
春風が吹く。
そして。
百年間止まっていた物語が、
ついに最後の頁へ辿り着く。
もうすぐ朝が来る。
もうすぐ春が来る。




