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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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最後の来客

夜想館に雨は降っていなかった。


 けれど。


 どこか雨上がりのような匂いがしていた。


 春の夜だった。



 客はいない。


 予約もない。


 館は静かだった。


 あまりにも静かで。


 まるで誰かを待っているようだった。



 朔弥はラウンジの窓を閉める。


 暖炉の火を確かめる。


 椅子を整える。


 百年間。


 変わらず続けてきた夜の仕事。


 それが終わると、


 自然とため息が漏れた。


 疲れていたのかもしれない。


 百年分。


 少しだけ。



 その時だった。


 からん。


 小さなベルの音が響く。


 朔弥は顔を上げる。


 玄関の方を見る。


 誰かが入ってきた音。


 確かに聞こえた。


「いらっしゃいませ」


 いつものように言う。


 だが。


 返事はない。



 玄関へ向かう。


 誰もいない。


 扉も閉まっている。


 風もない。


 聞き間違いだろうか。


 そう思った時。


 今度は別の音がした。


 かたり。



 ラウンジだった。


 誰かが椅子を引いたような音。


 朔弥は振り返る。


 そして。


 足を止めた。



 窓際の席。


 いつも春になると陽が差し込む席。


 その椅子が少しだけ引かれていた。


 さっき整えたはずなのに。


 誰も座っていない。


 けれど。


 なぜかそこに誰かがいるような気がした。



 春の香りがする。


 桜の香り。


 懐かしい香り。


 朔弥はゆっくり近づく。


 テーブルを見る。


 そこには。


 一枚の花びらが置かれていた。


 桜だった。


 夜風もないのに。


 窓も閉まっているのに。


 どこから来たのか分からない。


 朔弥はその花びらを拾う。


 指先へ乗せる。


 柔らかい。


 まるで今落ちたばかりのようだった。


 すると。


 ふいに。


 誰かの声が聞こえた気がした。


 とても遠く。


 とても近く。



 男性の声。


 穏やかな声。


 少し照れたような声。


「ありがとう」


 朔弥は目を見開く。


 振り返る。


 誰もいない。


 館の中には自分しかいない。



 それなのに。


 不思議と寂しくなかった。


 むしろ。


 長い旅を終えた誰かを見送ったような気持ちだった。


 恒星。


 その名前が胸に浮かぶ。



 百年間。


 届かなかった言葉。


 言えなかった言葉。


 伝えられなかった感謝。


 けれど今。


 確かに聞こえた気がした。


 朔弥は微笑む。


 本当に久しぶりに。


 肩の力を抜いて。



「こちらこそ」


 小さく呟く。


「ありがとう」


 その瞬間。


 館のどこかで本が開く音がした。


 ぱらり。


 書斎だった。


 朔弥は足早に向かう。


 机の上。


 『春を待つ人たち』。


 最後まで閉じられていた頁が、


 ゆっくりと開いている。



 白かった頁に、


 文字が浮かび上がる。


 ひと文字ずつ。


 ゆっくりと。


 まるで夜明けのように。


 朔弥は息を呑む。


 百年間。


 待ち続けた言葉。


 見たかった言葉。


 恐れていた言葉。



 窓の外を見る。


 東の空がわずかに明るい。


 長い夜が終わろうとしていた。



 桜が揺れる。


 春風が吹く。


 そして。


 百年間止まっていた物語が、


 ついに最後の頁へ辿り着く。


 もうすぐ朝が来る。


 もうすぐ春が来る。

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