桜雨 ― 恒星⑤
葬儀の日も雨だった。
春なのに寒い日だった。
桜はまだ咲いていた。
けれど。
恒星には何も見えていなかった。
◇
人が何を言ったのか覚えていない。
誰が来たのかも覚えていない。
ただ。
棺の中の咲希だけを見ていた。
◇
眠っているようだった。
今にも目を開いて、
いつものように微笑みそうだった。
だから余計につらかった。
◇
別れというものは、
少しずつ理解するものなのかもしれない。
その日にはまだ分からなかった。
咲希が本当にいなくなったことを。
◇
春が終わる。
夏が来る。
秋になる。
冬になる。
それでも。
恒星の時間だけは止まったままだった。
◇
笑わなくなった。
酒も飲まない。
友人とも会わない。
仕事だけをする。
眠る。
起きる。
働く。
眠る。
それだけの日々。
◇
咲希との約束は守れなかった。
幸せになる。
生きる。
春を楽しむ。
そんなことはできなかった。
◇
ある年の春。
恒星は一人で桜を見ていた。
咲希が亡くなって五年後。
同じ桜の木の下だった。
◇
花びらが舞う。
あの日と同じように。
美しく。
残酷なほど美しく。
◇
その時。
ふと気づく。
桜を見上げている自分に。
◇
約束だった。
毎年桜を見ること。
知らないうちに。
守っていた。
◇
「ずるいな」
恒星は笑う。
久しぶりだった。
本当に久しぶりに。
少しだけ。
笑った。
◇
風が吹く。
花びらが肩に落ちる。
まるで。
咲希がそこにいるような気がした。
◇
その日。
恒星は初めて日記を書いた。
咲希に宛てるように。
桜が咲きました。
今年も綺麗です。
あなたの言った通りでした。
◇
その一行が始まりだった。
翌年も。
その翌年も。
恒星は日記を書いた。
春が来るたびに。
◇
十年。
二十年。
三十年。
◇
やがて。
日記は何冊にもなった。
そこには。
嬉しかったこと。
悲しかったこと。
見た景色。
出会った人。
すべてが記されていた。
まるで。
遠くにいる咲希へ語りかけるように。
◇
そして。
晩年。
白髪になった恒星は、
最後の一冊を閉じる。
春の日だった。
◇
机の上には桜の枝。
窓の外にも桜。
人生の終わりが近いことを、
恒星は知っていた。
◇
震える手で最後の頁を書く。
ゆっくりと。
丁寧に。
◇
咲希へ
約束は全部守れませんでした
幸せだったかと聞かれたら
今でも分かりません
だけど
春は嫌いになれませんでした
桜を見るたび
あなたを思い出したからです
◇
恒星はそこで筆を止める。
少し考える。
そして最後に。
一文を書き加えた。
もし
もう一度会えるなら
今度はちゃんと伝えます
あなたと出会えて
本当に幸せでした
◇
それが。
恒星の最後の日記だった。
◇
百年後。
夜想館。
朔弥は『恒星手記』の最後の頁を読んでいた。
静かに。
涙を流しながら。
◇
知らなかった。
恒星がその後どう生きたのか。
知らなかった。
約束を守っていたことを。
苦しみながらも。
立ち止まりながらも。
それでも生き続けたことを。
◇
その時。
『春を待つ人たち』の頁が開く。
白い頁に文字が浮かび上がる。
『約束は果たされた』
◇
朔弥は目を見開く。
すると。
次の瞬間。
館全体を柔らかな風が吹き抜けた。
窓は閉まっている。
なのに。
春の香りがした。
◇
そして。
書斎の扉の向こうから、
誰かの笑い声が聞こえた気がした。
懐かしい声。
忘れるはずのない声。
◇
朔弥はゆっくり振り返る。
そこには誰もいない。
誰も。
いないはずなのに。
◇
机の上に一枚の桜の花びらが落ちていた。
まだ散る季節ではないはずなのに。
◇
その花びらの下には、
新しい文字が残されていた。
まるで誰かが最後に書いたように。
『ありがとう』
その字は。
咲希の字によく似ていた。
◇
夜想館の長い春が終わる。
けれど。
物語はまだ終わらない。
なぜなら。
『春を待つ人たち』には、
まだ最後の数頁が残されているのだから。
そしてその頁には、
朔弥自身の物語が記されることになる。




