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夜想館  作者: 灯野 しおん
第十夜

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桜雨 ― 恒星⑤

葬儀の日も雨だった。


 春なのに寒い日だった。


 桜はまだ咲いていた。


 けれど。


 恒星には何も見えていなかった。



 人が何を言ったのか覚えていない。


 誰が来たのかも覚えていない。


 ただ。


 棺の中の咲希だけを見ていた。



 眠っているようだった。


 今にも目を開いて、


 いつものように微笑みそうだった。


 だから余計につらかった。



 別れというものは、


 少しずつ理解するものなのかもしれない。


 その日にはまだ分からなかった。


 咲希が本当にいなくなったことを。



 春が終わる。


 夏が来る。


 秋になる。


 冬になる。


 それでも。


 恒星の時間だけは止まったままだった。



 笑わなくなった。


 酒も飲まない。


 友人とも会わない。


 仕事だけをする。


 眠る。


 起きる。


 働く。


 眠る。


 それだけの日々。



 咲希との約束は守れなかった。


 幸せになる。


 生きる。


 春を楽しむ。


 そんなことはできなかった。



 ある年の春。


 恒星は一人で桜を見ていた。


 咲希が亡くなって五年後。


 同じ桜の木の下だった。



 花びらが舞う。


 あの日と同じように。


 美しく。


 残酷なほど美しく。



 その時。


 ふと気づく。


 桜を見上げている自分に。



 約束だった。


 毎年桜を見ること。


 知らないうちに。


 守っていた。



「ずるいな」


 恒星は笑う。


 久しぶりだった。


 本当に久しぶりに。


 少しだけ。


 笑った。



 風が吹く。


 花びらが肩に落ちる。


 まるで。


 咲希がそこにいるような気がした。



 その日。


 恒星は初めて日記を書いた。


 咲希に宛てるように。


 桜が咲きました。


 今年も綺麗です。


 あなたの言った通りでした。



 その一行が始まりだった。


 翌年も。


 その翌年も。


 恒星は日記を書いた。


 春が来るたびに。



 十年。


 二十年。


 三十年。



 やがて。


 日記は何冊にもなった。


 そこには。


 嬉しかったこと。


 悲しかったこと。


 見た景色。


 出会った人。


 すべてが記されていた。


 まるで。


 遠くにいる咲希へ語りかけるように。



 そして。


 晩年。


 白髪になった恒星は、


 最後の一冊を閉じる。


 春の日だった。



 机の上には桜の枝。


 窓の外にも桜。


 人生の終わりが近いことを、


 恒星は知っていた。



 震える手で最後の頁を書く。


 ゆっくりと。


 丁寧に。



 咲希へ


 約束は全部守れませんでした


 幸せだったかと聞かれたら


 今でも分かりません


 だけど


 春は嫌いになれませんでした


 桜を見るたび


 あなたを思い出したからです



 恒星はそこで筆を止める。


 少し考える。


 そして最後に。


 一文を書き加えた。


 もし


 もう一度会えるなら


 今度はちゃんと伝えます


 あなたと出会えて


 本当に幸せでした



 それが。


 恒星の最後の日記だった。



 百年後。


 夜想館。


 朔弥は『恒星手記』の最後の頁を読んでいた。


 静かに。


 涙を流しながら。



 知らなかった。


 恒星がその後どう生きたのか。


 知らなかった。


 約束を守っていたことを。


 苦しみながらも。


 立ち止まりながらも。


 それでも生き続けたことを。



 その時。


 『春を待つ人たち』の頁が開く。


 白い頁に文字が浮かび上がる。


 『約束は果たされた』



 朔弥は目を見開く。


 すると。


 次の瞬間。


 館全体を柔らかな風が吹き抜けた。


 窓は閉まっている。


 なのに。


 春の香りがした。



 そして。


 書斎の扉の向こうから、


 誰かの笑い声が聞こえた気がした。


 懐かしい声。


 忘れるはずのない声。



 朔弥はゆっくり振り返る。


 そこには誰もいない。


 誰も。


 いないはずなのに。



 机の上に一枚の桜の花びらが落ちていた。


 まだ散る季節ではないはずなのに。



 その花びらの下には、


 新しい文字が残されていた。


 まるで誰かが最後に書いたように。


 『ありがとう』


 その字は。


 咲希の字によく似ていた。



 夜想館の長い春が終わる。


 けれど。


 物語はまだ終わらない。


 なぜなら。


 『春を待つ人たち』には、


 まだ最後の数頁が残されているのだから。


 そしてその頁には、


 朔弥自身の物語が記されることになる。

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