桜雨 ― 恒星④
雨が降っていた。
冷たい春の雨。
桜を散らす雨。
◇
「咲希様が……」
使用人の声は震えていた。
その続きを。
恒星は聞きたくなかった。
聞けば終わってしまう気がした。
まだ間に合うかもしれない。
まだ大丈夫かもしれない。
そんな希望にすがりたかった。
◇
けれど。
使用人は涙を流しながら言った。
「危篤です」
世界から音が消えた。
◇
雨音も。
人々の声も。
燃える家の音も。
何も聞こえない。
◇
ただ。
その二文字だけが残った。
危篤。
◇
「馬車を」
恒星は掠れた声で言う。
「馬車を出せ」
◇
走り出す。
再び。
今度は病院へ。
いや。
咲希の元へ。
◇
雨が顔を打つ。
息が切れる。
胸が痛い。
それでも止まれない。
◇
お願いだ。
間に合ってくれ。
神様。
何でもする。
だから。
どうか。
◇
馬車が病院へ着く。
恒星は飛び降りた。
転びそうになりながら。
階段を駆け上がる。
◇
廊下には朔弥がいた。
びしょ濡れのまま。
立ち尽くしていた。
◇
その顔を見た瞬間。
恒星は悟る。
嫌でも分かる。
◇
「朔弥」
声が震える。
「まだ」
「まだ間に合うよな」
◇
朔弥は答えない。
ただ。
震える指で病室を指した。
◇
恒星は扉を開ける。
勢いよく。
ほとんど壊しそうなほどに。
◇
病室は静かだった。
あまりにも静かだった。
◇
窓の外では桜が散っている。
雨に打たれながら。
儚く。
美しく。
◇
ベッドの上。
咲希が眠っていた。
呼吸は弱い。
今にも消えそうだった。
◇
「咲希」
恒星が呼ぶ。
返事はない。
「咲希」
もう一度。
呼ぶ。
◇
すると。
ゆっくりと瞼が開いた。
かすかな笑顔。
それだけで。
恒星は泣きそうになる。
◇
「……恒星さん」
小さな声だった。
聞き取れないほど。
それでも。
確かに咲希の声だった。
◇
「帰ってきた」
咲希が微笑む。
「良かった」
◇
良かったのはこっちだ。
そう言いたかった。
でも言えなかった。
涙で。
声が出なかった。
◇
「ごめん」
恒星は言う。
「ごめん」
何度も。
何度も。
繰り返す。
◇
「約束したのに」
「そばにいるって」
「俺は」
「俺は」
◇
咲希は首を横に振った。
弱々しく。
けれど優しく。
◇
「守ってくれました」
微笑む。
「たくさん」
「たくさん」
◇
恒星は泣く。
子供みたいに。
何も隠せず。
◇
「嫌だ」
初めて口にした。
ずっと飲み込んでいた本音。
「行かないでくれ」
「頼む」
「お願いだから」
◇
咲希は泣かなかった。
最後まで。
ただ。
恒星を見つめていた。
愛おしそうに。
優しく。
◇
「恒星さん」
「……」
「約束」
その言葉に。
恒星は顔を上げる。
◇
「春が来たら」
咲希の声は途切れそうだった。
「桜を見てください」
「毎年」
◇
「……」
「そして」
小さく笑う。
◇
「幸せになってください」
◇
恒星は首を振る。
何度も。
何度も。
「無理だ」
「君がいないのに」
「そんなこと」
◇
咲希は少し困ったように笑った。
百年前の春。
いつもそうしていたように。
◇
「できますよ」
「恒星さんなら」
◇
その言葉が。
最後だった。
◇
窓の外で風が吹く。
桜が舞う。
花びらが病室へ入り込む。
一枚。
また一枚。
◇
咲希の瞳がゆっくり閉じる。
穏やかに。
眠るように。
◇
「咲希」
恒星が呼ぶ。
返事はない。
◇
「咲希」
もう一度。
呼ぶ。
返事はない。
◇
「咲希」
三度目。
それでも。
返事はなかった。
◇
春の雨が降る。
桜が散る。
そして。
恒星の春も終わった。
◇
病室の外で。
朔弥は静かに涙を流していた。
その時はまだ知らない。
この日から百年後。
咲希の願いが、
夜想館という形で生き続けることを。
そして。
恒星が遺した本当の約束が、
まだ終わっていないことを。




