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夜想館  作者: 灯野 しおん
第十夜

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桜雨 ― 恒星④

雨が降っていた。


 冷たい春の雨。


 桜を散らす雨。



「咲希様が……」


 使用人の声は震えていた。


 その続きを。


 恒星は聞きたくなかった。


 聞けば終わってしまう気がした。


 まだ間に合うかもしれない。


 まだ大丈夫かもしれない。


 そんな希望にすがりたかった。



 けれど。


 使用人は涙を流しながら言った。


「危篤です」


 世界から音が消えた。



 雨音も。


 人々の声も。


 燃える家の音も。


 何も聞こえない。



 ただ。


 その二文字だけが残った。


 危篤。



「馬車を」


 恒星は掠れた声で言う。


「馬車を出せ」



 走り出す。


 再び。


 今度は病院へ。


 いや。


 咲希の元へ。



 雨が顔を打つ。


 息が切れる。


 胸が痛い。


 それでも止まれない。



 お願いだ。


 間に合ってくれ。


 神様。


 何でもする。


 だから。


 どうか。



 馬車が病院へ着く。


 恒星は飛び降りた。


 転びそうになりながら。


 階段を駆け上がる。



 廊下には朔弥がいた。


 びしょ濡れのまま。


 立ち尽くしていた。



 その顔を見た瞬間。


 恒星は悟る。


 嫌でも分かる。



「朔弥」


 声が震える。


「まだ」


「まだ間に合うよな」



 朔弥は答えない。


 ただ。


 震える指で病室を指した。



 恒星は扉を開ける。


 勢いよく。


 ほとんど壊しそうなほどに。



 病室は静かだった。


 あまりにも静かだった。



 窓の外では桜が散っている。


 雨に打たれながら。


 儚く。


 美しく。



 ベッドの上。


 咲希が眠っていた。


 呼吸は弱い。


 今にも消えそうだった。



「咲希」


 恒星が呼ぶ。


 返事はない。


「咲希」


 もう一度。


 呼ぶ。



 すると。


 ゆっくりと瞼が開いた。


 かすかな笑顔。


 それだけで。


 恒星は泣きそうになる。



「……恒星さん」


 小さな声だった。


 聞き取れないほど。


 それでも。


 確かに咲希の声だった。



「帰ってきた」


 咲希が微笑む。


「良かった」



 良かったのはこっちだ。


 そう言いたかった。


 でも言えなかった。


 涙で。


 声が出なかった。



「ごめん」


 恒星は言う。


「ごめん」


 何度も。


 何度も。


 繰り返す。



「約束したのに」


「そばにいるって」


「俺は」


「俺は」



 咲希は首を横に振った。


 弱々しく。


 けれど優しく。



「守ってくれました」


 微笑む。


「たくさん」


「たくさん」



 恒星は泣く。


 子供みたいに。


 何も隠せず。



「嫌だ」


 初めて口にした。


 ずっと飲み込んでいた本音。


「行かないでくれ」


「頼む」


「お願いだから」



 咲希は泣かなかった。


 最後まで。


 ただ。


 恒星を見つめていた。


 愛おしそうに。


 優しく。



「恒星さん」


「……」


「約束」


 その言葉に。


 恒星は顔を上げる。



「春が来たら」


 咲希の声は途切れそうだった。


「桜を見てください」


「毎年」



「……」


「そして」


 小さく笑う。



「幸せになってください」



 恒星は首を振る。


 何度も。


 何度も。


「無理だ」


「君がいないのに」


「そんなこと」



 咲希は少し困ったように笑った。


 百年前の春。


 いつもそうしていたように。



「できますよ」


「恒星さんなら」



 その言葉が。


 最後だった。



 窓の外で風が吹く。


 桜が舞う。


 花びらが病室へ入り込む。


 一枚。


 また一枚。



 咲希の瞳がゆっくり閉じる。


 穏やかに。


 眠るように。



「咲希」


 恒星が呼ぶ。


 返事はない。



「咲希」


 もう一度。


 呼ぶ。


 返事はない。



「咲希」


 三度目。


 それでも。


 返事はなかった。



 春の雨が降る。


 桜が散る。


 そして。


 恒星の春も終わった。



 病室の外で。


 朔弥は静かに涙を流していた。


 その時はまだ知らない。


 この日から百年後。


 咲希の願いが、


 夜想館という形で生き続けることを。


 そして。


 恒星が遺した本当の約束が、


 まだ終わっていないことを。

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