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夜想館  作者: 灯野 しおん
第十夜

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桜雨 ― 恒星③

火事。


 その言葉だけが頭の中で響いていた。


 何度も。


 何度も。


 雨音に混じって。



「恒星さん」


 咲希の声が聞こえる。


 震えていた。


 けれど。


 恒星は振り返れなかった。



 父と母。


 家。


 炎。


 嫌な想像ばかりが浮かぶ。


 胸が締め付けられる。


 息が苦しい。



「行ってください」


 咲希が言った。


 はっきりと。


 迷いなく。



「でも」


 恒星は振り返る。


 雨に濡れる咲希。


 細い肩。


 青白い顔。


 今にも消えてしまいそうな人。



「行ってください」


 もう一度。


 咲希は微笑んだ。


「大丈夫ですから」


 その言葉。


 恒星が何度も咲希へ言ってきた言葉だった。


 今度は逆だった。



 恒星は動けない。


 足が前へ出ない。


 嫌な予感がしていた。


 説明できないほど強い予感。


 ここで離れたら、


 もう二度と戻れない気がした。



「恒星」


 朔弥が肩を掴む。


 真剣な顔だった。


「行け」


「……」


「ここは私がいる」


 強い声だった。


 百年前の朔弥には珍しいほど。



 咲希も頷く。


 優しく。


 穏やかに。


 泣きたくなるほど。


 いつも通りに。



 そして。


 最後に言った。


「また後で」


 その言葉を。


 恒星は信じた。


 信じてしまった。



「分かった」


 恒星は頷く。


 雨が強くなる。


 桜の花びらが舞う。


 まるで。


 別れを惜しむように。



 走り出す。


 振り返らずに。


 振り返ったら、


 行けなくなる気がしたから。



 咲希はその背中を見送った。


 遠ざかるまで。


 見えなくなるまで。



「咲希さん」


 朔弥が呼ぶ。


 咲希は微笑む。


 けれど。


 その顔色は急速に悪くなっていた。



「少し休みましょう」


「はい」


 返事はした。


 だが。


 立ち上がろうとした瞬間だった。



 ふらり。


 体が揺れる。


 朔弥の顔色が変わる。


「咲希さん!」



 咲希の体から力が抜ける。


 呼吸が浅い。


 苦しそうだった。


 急激な発熱。


 雨。


 体力の消耗。


 すべてが重なっていた。



「先生を!」


 朔弥が叫ぶ。


 使用人たちが駆け出す。


 雨の中。


 桜の下。


 春は静かに崩れ始めていた。



 一方その頃。


 恒星は全力で走っていた。


 雨の街を。


 泥だらけになりながら。


 ただひたすら。


 家へ。



 遠くに煙が見えた。


 黒い煙。


 空へ伸びる煙。


 心臓が凍る。



「父さん!」


「母さん!」


 叫ぶ。


 走る。


 叫ぶ。


 走る。



 やがて辿り着く。


 燃え盛る自宅。


 人々の悲鳴。


 消防団。


 飛び交う怒号。



「恒星!」


 誰かが止める。


 近所の人だった。


「駄目だ!」


「離せ!」


 恒星は暴れる。


 家へ向かおうとする。



「もう無理だ!」


「中には誰もいない!」


 その言葉で。


 恒星の動きが止まる。



「え……」


「ご両親は助かってる!」



 膝から力が抜ける。


 その場へ崩れ落ちる。


 助かった。


 助かったのだ。


 良かった。


 本当に。


 良かった。



 涙が出る。


 安心した。


 心の底から。


 けれど。


 その瞬間だった。


 遠くから馬車の音が響く。


 激しく。


 慌ただしく。



 馬車が止まる。


 一人の使用人が飛び降りる。


 顔面蒼白だった。



 そして。


 恒星を見つけるなり叫んだ。


「恒星様!!」


 その声で。


 嫌な予感が蘇る。


 全身が冷たくなる。



 使用人は震えていた。


 雨に濡れながら。


 泣きそうな顔で。


 必死に。


 必死に。


 言葉を絞り出した。


「咲希様が……!」


 そこで言葉が詰まる。


 涙が落ちる。



 恒星は立ち上がる。


 いや。


 立ち上がれなかった。


 足が震える。


 聞きたくない。


 聞きたくない。


 聞きたくない。



 それでも。


 運命は待ってくれない。


 春の雨は降り続く。


 桜は散り続ける。


 そして。


 百年間閉ざされていた約束の真実が、


 もうすぐ明かされようとしていた。

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