桜雨 ― 恒星③
火事。
その言葉だけが頭の中で響いていた。
何度も。
何度も。
雨音に混じって。
◇
「恒星さん」
咲希の声が聞こえる。
震えていた。
けれど。
恒星は振り返れなかった。
◇
父と母。
家。
炎。
嫌な想像ばかりが浮かぶ。
胸が締め付けられる。
息が苦しい。
◇
「行ってください」
咲希が言った。
はっきりと。
迷いなく。
◇
「でも」
恒星は振り返る。
雨に濡れる咲希。
細い肩。
青白い顔。
今にも消えてしまいそうな人。
◇
「行ってください」
もう一度。
咲希は微笑んだ。
「大丈夫ですから」
その言葉。
恒星が何度も咲希へ言ってきた言葉だった。
今度は逆だった。
◇
恒星は動けない。
足が前へ出ない。
嫌な予感がしていた。
説明できないほど強い予感。
ここで離れたら、
もう二度と戻れない気がした。
◇
「恒星」
朔弥が肩を掴む。
真剣な顔だった。
「行け」
「……」
「ここは私がいる」
強い声だった。
百年前の朔弥には珍しいほど。
◇
咲希も頷く。
優しく。
穏やかに。
泣きたくなるほど。
いつも通りに。
◇
そして。
最後に言った。
「また後で」
その言葉を。
恒星は信じた。
信じてしまった。
◇
「分かった」
恒星は頷く。
雨が強くなる。
桜の花びらが舞う。
まるで。
別れを惜しむように。
◇
走り出す。
振り返らずに。
振り返ったら、
行けなくなる気がしたから。
◇
咲希はその背中を見送った。
遠ざかるまで。
見えなくなるまで。
◇
「咲希さん」
朔弥が呼ぶ。
咲希は微笑む。
けれど。
その顔色は急速に悪くなっていた。
◇
「少し休みましょう」
「はい」
返事はした。
だが。
立ち上がろうとした瞬間だった。
◇
ふらり。
体が揺れる。
朔弥の顔色が変わる。
「咲希さん!」
◇
咲希の体から力が抜ける。
呼吸が浅い。
苦しそうだった。
急激な発熱。
雨。
体力の消耗。
すべてが重なっていた。
◇
「先生を!」
朔弥が叫ぶ。
使用人たちが駆け出す。
雨の中。
桜の下。
春は静かに崩れ始めていた。
◇
一方その頃。
恒星は全力で走っていた。
雨の街を。
泥だらけになりながら。
ただひたすら。
家へ。
◇
遠くに煙が見えた。
黒い煙。
空へ伸びる煙。
心臓が凍る。
◇
「父さん!」
「母さん!」
叫ぶ。
走る。
叫ぶ。
走る。
◇
やがて辿り着く。
燃え盛る自宅。
人々の悲鳴。
消防団。
飛び交う怒号。
◇
「恒星!」
誰かが止める。
近所の人だった。
「駄目だ!」
「離せ!」
恒星は暴れる。
家へ向かおうとする。
◇
「もう無理だ!」
「中には誰もいない!」
その言葉で。
恒星の動きが止まる。
◇
「え……」
「ご両親は助かってる!」
◇
膝から力が抜ける。
その場へ崩れ落ちる。
助かった。
助かったのだ。
良かった。
本当に。
良かった。
◇
涙が出る。
安心した。
心の底から。
けれど。
その瞬間だった。
遠くから馬車の音が響く。
激しく。
慌ただしく。
◇
馬車が止まる。
一人の使用人が飛び降りる。
顔面蒼白だった。
◇
そして。
恒星を見つけるなり叫んだ。
「恒星様!!」
その声で。
嫌な予感が蘇る。
全身が冷たくなる。
◇
使用人は震えていた。
雨に濡れながら。
泣きそうな顔で。
必死に。
必死に。
言葉を絞り出した。
「咲希様が……!」
そこで言葉が詰まる。
涙が落ちる。
◇
恒星は立ち上がる。
いや。
立ち上がれなかった。
足が震える。
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
◇
それでも。
運命は待ってくれない。
春の雨は降り続く。
桜は散り続ける。
そして。
百年間閉ざされていた約束の真実が、
もうすぐ明かされようとしていた。




