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夜想館  作者: 灯野 しおん
第十夜

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桜雨 ― 恒星②

午後。


 庭の桜は風に揺れていた。


 咲希は久しぶりの外の空気に満足したようで、


 穏やかな表情をしていた。


 頬にはうっすらと赤みが差している。


 それだけで恒星は嬉しかった。


 何日ぶりだろう。


 こんな顔を見たのは。



「寒くないですか」


「大丈夫です」


 咲希は笑う。


「今日は良い日ですね」


 その言葉に、


 恒星は返事ができなかった。


 良い日。


 本当にそうだろうか。


 咲希に残された時間を知っている自分には、


 どうしてもそう思えなかった。



 けれど。


 咲希は違った。


 今ある幸せを見ていた。


 失うものではなく。


 残された時間ではなく。


 この瞬間を。



「恒星さん」


「ん?」


「お願いがあります」


 珍しく真面目な声だった。


 恒星は身構える。



「もし私がいなくなっても」


 その言葉だけで、


 胸が締め付けられる。


 聞きたくなかった。


 聞いてはいけない気がした。



「駄目だ」


 思わず言う。


「そんな話」


「聞いてください」


 咲希は静かだった。


 怒っていない。


 悲しんでもいない。


 ただ。


 大切なことを伝えようとしていた。



「約束してほしいんです」


 恒星は黙る。


 咲希は桜を見上げる。


 花びらが肩に落ちる。


「生きてください」


 その一言だった。



「……」


 恒星は何も言えない。


 咲希は続ける。


「笑ってください」


「春が来たら桜を見てください」


「美味しいものを食べてください」


「新しい友達を作ってください」


「幸せになってください」



「そんなこと」


 恒星の声が震える。


「できるわけないだろ」



 初めてだった。


 恒星が咲希の前で感情を露わにしたのは。


「君がいないのに」


「どうやって」


「どうやって幸せになれって言うんだ」



 風が止む。


 世界が静かになる。


 遠くで鳥の声だけが聞こえる。



 咲希は微笑んだ。


 泣きそうなくらい優しく。


「なれるんですよ」


 その言葉は不思議だった。


 弱っているはずの人が、


 残される人を励ましている。



「私は」


 咲希が言う。


「恒星さんに出会えて幸せでした」


 恒星は俯く。


 涙が落ちる。


 止まらない。



「だから」


 咲希は続ける。


「私との思い出を悲しいものにしないでください」


「幸せだった思い出にしてください」



 恒星は返事ができなかった。


 約束できなかった。


 できる気がしなかった。



 その時だった。


 空が暗くなる。


 さっきまで晴れていた空に、


 黒い雲が流れ込んできた。



「雨だ」


 朔弥が空を見上げる。


 ぽつり。


 頬に冷たいものが落ちた。


 春の雨。


 桜雨だった。



 雨は少しずつ強くなる。


 咲希を屋内へ戻そうと、


 朔弥と恒星が動く。


 だが。


 その時。


 病院の門の方から、


 一人の男が走ってくるのが見えた。



 びしょ濡れだった。


 息を切らしている。


 顔色も悪い。


 そして。


 恒星を見るなり叫んだ。


「恒星!」


 恒星は振り返る。


 幼なじみの信也だった。



「どうした」


 ただ事ではない。


 すぐに分かった。


 信也は肩で息をしながら、


 震える声で言う。


「今すぐ来い」


「お前の家だ」


「火事だ」



 世界が止まった。


 雨音だけが聞こえる。


 桜の花びらが舞う。


 咲希が息を呑む。


 朔弥も動けない。



「……え?」


 恒星の口から、


 間の抜けた声が漏れる。


 理解できなかった。


 理解したくなかった。



「火が回ってる!」


「お前の父さんと母さんが!」


「まだ中にいるかもしれない!」


 その言葉で。


 恒星の顔から血の気が消えた。



 雨が降る。


 桜が散る。


 春の中で。


 運命は無慈悲に動き始める。


 この日。


 恒星は一つの約束と、


 一つの人生の分岐点に立たされる。


 そして。


 百年間隠されていた真実は、


 ここから始まる。

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