桜雨 ― 恒星②
午後。
庭の桜は風に揺れていた。
咲希は久しぶりの外の空気に満足したようで、
穏やかな表情をしていた。
頬にはうっすらと赤みが差している。
それだけで恒星は嬉しかった。
何日ぶりだろう。
こんな顔を見たのは。
◇
「寒くないですか」
「大丈夫です」
咲希は笑う。
「今日は良い日ですね」
その言葉に、
恒星は返事ができなかった。
良い日。
本当にそうだろうか。
咲希に残された時間を知っている自分には、
どうしてもそう思えなかった。
◇
けれど。
咲希は違った。
今ある幸せを見ていた。
失うものではなく。
残された時間ではなく。
この瞬間を。
◇
「恒星さん」
「ん?」
「お願いがあります」
珍しく真面目な声だった。
恒星は身構える。
◇
「もし私がいなくなっても」
その言葉だけで、
胸が締め付けられる。
聞きたくなかった。
聞いてはいけない気がした。
◇
「駄目だ」
思わず言う。
「そんな話」
「聞いてください」
咲希は静かだった。
怒っていない。
悲しんでもいない。
ただ。
大切なことを伝えようとしていた。
◇
「約束してほしいんです」
恒星は黙る。
咲希は桜を見上げる。
花びらが肩に落ちる。
「生きてください」
その一言だった。
◇
「……」
恒星は何も言えない。
咲希は続ける。
「笑ってください」
「春が来たら桜を見てください」
「美味しいものを食べてください」
「新しい友達を作ってください」
「幸せになってください」
◇
「そんなこと」
恒星の声が震える。
「できるわけないだろ」
◇
初めてだった。
恒星が咲希の前で感情を露わにしたのは。
「君がいないのに」
「どうやって」
「どうやって幸せになれって言うんだ」
◇
風が止む。
世界が静かになる。
遠くで鳥の声だけが聞こえる。
◇
咲希は微笑んだ。
泣きそうなくらい優しく。
「なれるんですよ」
その言葉は不思議だった。
弱っているはずの人が、
残される人を励ましている。
◇
「私は」
咲希が言う。
「恒星さんに出会えて幸せでした」
恒星は俯く。
涙が落ちる。
止まらない。
◇
「だから」
咲希は続ける。
「私との思い出を悲しいものにしないでください」
「幸せだった思い出にしてください」
◇
恒星は返事ができなかった。
約束できなかった。
できる気がしなかった。
◇
その時だった。
空が暗くなる。
さっきまで晴れていた空に、
黒い雲が流れ込んできた。
◇
「雨だ」
朔弥が空を見上げる。
ぽつり。
頬に冷たいものが落ちた。
春の雨。
桜雨だった。
◇
雨は少しずつ強くなる。
咲希を屋内へ戻そうと、
朔弥と恒星が動く。
だが。
その時。
病院の門の方から、
一人の男が走ってくるのが見えた。
◇
びしょ濡れだった。
息を切らしている。
顔色も悪い。
そして。
恒星を見るなり叫んだ。
「恒星!」
恒星は振り返る。
幼なじみの信也だった。
◇
「どうした」
ただ事ではない。
すぐに分かった。
信也は肩で息をしながら、
震える声で言う。
「今すぐ来い」
「お前の家だ」
「火事だ」
◇
世界が止まった。
雨音だけが聞こえる。
桜の花びらが舞う。
咲希が息を呑む。
朔弥も動けない。
◇
「……え?」
恒星の口から、
間の抜けた声が漏れる。
理解できなかった。
理解したくなかった。
◇
「火が回ってる!」
「お前の父さんと母さんが!」
「まだ中にいるかもしれない!」
その言葉で。
恒星の顔から血の気が消えた。
◇
雨が降る。
桜が散る。
春の中で。
運命は無慈悲に動き始める。
この日。
恒星は一つの約束と、
一つの人生の分岐点に立たされる。
そして。
百年間隠されていた真実は、
ここから始まる。




