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夜想館  作者: 灯野 しおん
第十夜

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桜雨 ― 恒星

大正十四年四月八日。


 朝。


 桜が咲いていた。


 満開ではない。


 けれど。


 咲希がずっと待っていた春だった。



 恒星はほとんど眠れなかった。


 昨夜も。


 その前の夜も。


 眠ろうとしても、


 胸の奥に重い石が沈んでいるようだった。


 怖かった。


 認めたくなかった。


 けれど。


 医師の言葉は残酷なほど明確だった。



 咲希の命は長くない。


 春を越えられるかどうかも分からない。



 恒星は何度も拳を握った。


 何度も。


 何度も。


 何か方法があるはずだと。


 奇跡があるはずだと。


 そう信じたかった。


 けれど現実は、


 祈りよりも冷たかった。



 それでも。


 今日だけは笑うと決めていた。


 咲希との約束だから。



 病室の扉を開く。


 窓際に座る咲希が振り返る。


「おはようございます」


 柔らかな笑顔。


 少し痩せた頬。


 けれど。


 瞳だけは昔と変わらない。


 春の光を映していた。



「おはよう」


 恒星も笑う。


 ぎこちなく。


 けれど精一杯。



「桜」


 咲希が言う。


「咲いていますか」


「咲いてるよ」


 恒星は頷く。


「綺麗だ」


 その言葉だけで、


 咲希は嬉しそうに笑った。


 まるで子供みたいに。



「見に行きたいです」


 その願いを。


 恒星は待っていた。


 ずっと。



「行こう」


 即答だった。


「庭まで」


「約束だから」



 咲希は目を丸くする。


 そして。


 少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「はい」


 その返事が、


 なぜか胸を締め付けた。



 昼過ぎ。


 朔弥も手伝い、


 咲希を庭へ連れて行く準備をする。


 車椅子。


 薄い毛布。


 薬。


 温かいお茶。


 どれも些細なもの。


 けれど。


 その一つひとつが、


 かけがえのない時間だった。



 庭へ出る。


 春風が吹く。


 桜が揺れる。


 花びらが舞う。


 咲希はしばらく言葉を失った。


 ただ。


 空を見上げる。


 桜を見上げる。


 光を見上げる。



 そして。


 小さく呟いた。


「綺麗」


 それだけだった。


 それだけなのに。


 恒星は泣きそうになった。



「来年も見ましょうね」


 咲希が言う。


 何気なく。


 いつものように。



 恒星は答えられなかった。


 来年。


 その言葉が刃になる。


 知っているから。


 現実を。



 咲希は気づいていた。


 もちろん。


 気づいていた。


 恒星が答えられなかったことに。


 笑顔の裏の悲しみに。



 それでも。


 何も言わなかった。


 代わりに。


 桜を見上げながら、


 こんなことを言った。


「もし」


「来年見られなくても」


 恒星の肩が震える。



「桜は咲きます」


 風が吹く。


 花びらが舞う。


「だから」


 咲希は微笑んだ。


「悲しまないでください」


 その言葉に。


 恒星は初めて顔を伏せた。


 堪えきれなかった。


 涙を。



 咲希は何も言わない。


 ただ隣で桜を見ている。


 春の光の中で。


 穏やかに。


 優しく。


 まるで。


 すべてを受け入れている人のように。



 だが。


 この時の恒星はまだ知らなかった。


 この日の夕方。


 運命が思いもよらない形で動き出すことを。


 咲希の病だけではない。


 誰も予想できなかった出来事が、


 彼らを待っていることを。


 そして。


 百年間、


 朔弥が知らなかった真実が、


 ここから始まることを。

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