桜雨 ― 恒星
大正十四年四月八日。
朝。
桜が咲いていた。
満開ではない。
けれど。
咲希がずっと待っていた春だった。
◇
恒星はほとんど眠れなかった。
昨夜も。
その前の夜も。
眠ろうとしても、
胸の奥に重い石が沈んでいるようだった。
怖かった。
認めたくなかった。
けれど。
医師の言葉は残酷なほど明確だった。
◇
咲希の命は長くない。
春を越えられるかどうかも分からない。
◇
恒星は何度も拳を握った。
何度も。
何度も。
何か方法があるはずだと。
奇跡があるはずだと。
そう信じたかった。
けれど現実は、
祈りよりも冷たかった。
◇
それでも。
今日だけは笑うと決めていた。
咲希との約束だから。
◇
病室の扉を開く。
窓際に座る咲希が振り返る。
「おはようございます」
柔らかな笑顔。
少し痩せた頬。
けれど。
瞳だけは昔と変わらない。
春の光を映していた。
◇
「おはよう」
恒星も笑う。
ぎこちなく。
けれど精一杯。
◇
「桜」
咲希が言う。
「咲いていますか」
「咲いてるよ」
恒星は頷く。
「綺麗だ」
その言葉だけで、
咲希は嬉しそうに笑った。
まるで子供みたいに。
◇
「見に行きたいです」
その願いを。
恒星は待っていた。
ずっと。
◇
「行こう」
即答だった。
「庭まで」
「約束だから」
◇
咲希は目を丸くする。
そして。
少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「はい」
その返事が、
なぜか胸を締め付けた。
◇
昼過ぎ。
朔弥も手伝い、
咲希を庭へ連れて行く準備をする。
車椅子。
薄い毛布。
薬。
温かいお茶。
どれも些細なもの。
けれど。
その一つひとつが、
かけがえのない時間だった。
◇
庭へ出る。
春風が吹く。
桜が揺れる。
花びらが舞う。
咲希はしばらく言葉を失った。
ただ。
空を見上げる。
桜を見上げる。
光を見上げる。
◇
そして。
小さく呟いた。
「綺麗」
それだけだった。
それだけなのに。
恒星は泣きそうになった。
◇
「来年も見ましょうね」
咲希が言う。
何気なく。
いつものように。
◇
恒星は答えられなかった。
来年。
その言葉が刃になる。
知っているから。
現実を。
◇
咲希は気づいていた。
もちろん。
気づいていた。
恒星が答えられなかったことに。
笑顔の裏の悲しみに。
◇
それでも。
何も言わなかった。
代わりに。
桜を見上げながら、
こんなことを言った。
「もし」
「来年見られなくても」
恒星の肩が震える。
◇
「桜は咲きます」
風が吹く。
花びらが舞う。
「だから」
咲希は微笑んだ。
「悲しまないでください」
その言葉に。
恒星は初めて顔を伏せた。
堪えきれなかった。
涙を。
◇
咲希は何も言わない。
ただ隣で桜を見ている。
春の光の中で。
穏やかに。
優しく。
まるで。
すべてを受け入れている人のように。
◇
だが。
この時の恒星はまだ知らなかった。
この日の夕方。
運命が思いもよらない形で動き出すことを。
咲希の病だけではない。
誰も予想できなかった出来事が、
彼らを待っていることを。
そして。
百年間、
朔弥が知らなかった真実が、
ここから始まることを。




