春の足音
夜更けだった。
客人のいない夜想館は、
まるで時そのものが眠っているように静かだった。
暖炉の火も消えかけている。
時計の振り子だけが、
規則正しく揺れていた。
◇
朔弥は一人、
書斎に座っていた。
目の前には、
『春を待つ人たち』。
白い表紙。
古びた頁。
そして。
先ほど現れた文字。
大正十四年 四月八日
忘れられるはずがなかった。
百年経とうと。
二百年経とうと。
あの日だけは。
◇
窓の外を見る。
桜が咲いていた。
夜風に揺れながら。
静かに。
美しく。
まるで。
あの日と同じように。
◇
大正十四年。
四月八日。
その朝も桜が咲いていた。
咲希が楽しみにしていた春だった。
ようやく来た春だった。
◇
朔弥は目を閉じる。
思い出したくないわけではない。
むしろ逆だった。
思い出しすぎて、
心に刻み込まれている。
細部まで。
声も。
匂いも。
光も。
全部。
◇
その時。
ぱらり。
『春を待つ人たち』の頁がめくれた。
ひとりでに。
静かに。
◇
新しい文字が現れる。
今までとは違う。
文章ではない。
誰かの日記のようだった。
午前六時。
咲希の熱が少し下がる。
久しぶりに笑った。
朔弥の呼吸が止まる。
これは。
恒星の記録だった。
◇
文字は続く。
午前九時。
咲希が桜を見たいと言う。
庭へ連れて行く約束をした。
朔弥の手が震える。
知っている。
その日の出来事を。
何度も夢に見た。
何度も後悔した。
◇
さらに文字が浮かぶ。
午後一時。
風が強い。
それでも桜は綺麗だ。
そこで文字は止まる。
まるで。
続きを躊躇うように。
◇
静寂。
時計の音だけが響く。
朔弥は頁を見つめる。
胸が苦しい。
分かっているから。
この先に何があるのか。
知っているから。
◇
しかし。
新たな文字が現れた。
予想していたものとは違う。
短い言葉だった。
『準備はできましたか』
朔弥は目を見開く。
誰への問いなのか。
分からない。
けれど。
胸の奥で何かが答える。
百年間、
聞くことを恐れていた物語。
向き合うことを避けていた真実。
その時が来たのだと。
◇
暖炉の火が、
ふっと大きく揺れた。
風もないのに。
まるで誰かが通り過ぎたように。
◇
その瞬間。
書棚の奥から一冊の本が落ちる。
どさり。
静かな音。
朔弥は立ち上がる。
拾い上げる。
見覚えのある本だった。
古い革表紙。
色褪せた金文字。
百年間、
開かれることのなかった本。
◇
表紙には、
こう記されていた。
『恒星手記』
朔弥の指先が止まる。
これまで開けなかった本。
開く勇気がなかった本。
あの日の続きを知るのが怖かったから。
◇
しかし今。
もう逃げられない。
いや。
逃げたくなかった。
百年間待ったのだから。
◇
朔弥はゆっくりと本を開く。
最初の頁。
そこには。
ただ一行だけ、
恒星の字で書かれていた。
『これは、約束の日の記録である。』
夜想館の時計が、
深夜零時を告げる。
ごうん。
ごうん。
低い鐘の音が館に響く。
◇
桜が舞う。
春の風が吹く。
百年間閉ざされていた記憶の扉が、
ついに開かれる。
誰も知らなかった真実。
恒星が最後まで抱えていた願い。
咲希が遺した想い。
そして。
朔弥が知らなかった、
本当の春の結末。
その物語が始まる。




