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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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春の足音

夜更けだった。


 客人のいない夜想館は、


 まるで時そのものが眠っているように静かだった。


 暖炉の火も消えかけている。


 時計の振り子だけが、


 規則正しく揺れていた。



 朔弥は一人、


 書斎に座っていた。


 目の前には、


 『春を待つ人たち』。


 白い表紙。


 古びた頁。


 そして。


 先ほど現れた文字。


 大正十四年 四月八日


 忘れられるはずがなかった。


 百年経とうと。


 二百年経とうと。


 あの日だけは。



 窓の外を見る。


 桜が咲いていた。


 夜風に揺れながら。


 静かに。


 美しく。


 まるで。


 あの日と同じように。



 大正十四年。


 四月八日。


 その朝も桜が咲いていた。


 咲希が楽しみにしていた春だった。


 ようやく来た春だった。



 朔弥は目を閉じる。


 思い出したくないわけではない。


 むしろ逆だった。


 思い出しすぎて、


 心に刻み込まれている。


 細部まで。


 声も。


 匂いも。


 光も。


 全部。



 その時。


 ぱらり。


 『春を待つ人たち』の頁がめくれた。


 ひとりでに。


 静かに。



 新しい文字が現れる。


 今までとは違う。


 文章ではない。


 誰かの日記のようだった。


 午前六時。


 咲希の熱が少し下がる。


 久しぶりに笑った。


 朔弥の呼吸が止まる。


 これは。


 恒星の記録だった。



 文字は続く。


 午前九時。


 咲希が桜を見たいと言う。


 庭へ連れて行く約束をした。


 朔弥の手が震える。


 知っている。


 その日の出来事を。


 何度も夢に見た。


 何度も後悔した。



 さらに文字が浮かぶ。


 午後一時。


 風が強い。


 それでも桜は綺麗だ。


 そこで文字は止まる。


 まるで。


 続きを躊躇うように。



 静寂。


 時計の音だけが響く。


 朔弥は頁を見つめる。


 胸が苦しい。


 分かっているから。


 この先に何があるのか。


 知っているから。



 しかし。


 新たな文字が現れた。


 予想していたものとは違う。


 短い言葉だった。


 『準備はできましたか』


 朔弥は目を見開く。


 誰への問いなのか。


 分からない。


 けれど。


 胸の奥で何かが答える。


 百年間、


 聞くことを恐れていた物語。


 向き合うことを避けていた真実。


 その時が来たのだと。



 暖炉の火が、


 ふっと大きく揺れた。


 風もないのに。


 まるで誰かが通り過ぎたように。



 その瞬間。


 書棚の奥から一冊の本が落ちる。


 どさり。


 静かな音。


 朔弥は立ち上がる。


 拾い上げる。


 見覚えのある本だった。


 古い革表紙。


 色褪せた金文字。


 百年間、


 開かれることのなかった本。



 表紙には、


 こう記されていた。


 『恒星手記』


 朔弥の指先が止まる。


 これまで開けなかった本。


 開く勇気がなかった本。


 あの日の続きを知るのが怖かったから。



 しかし今。


 もう逃げられない。


 いや。


 逃げたくなかった。


 百年間待ったのだから。



 朔弥はゆっくりと本を開く。


 最初の頁。


 そこには。


 ただ一行だけ、


 恒星の字で書かれていた。


 『これは、約束の日の記録である。』


 夜想館の時計が、


 深夜零時を告げる。


 ごうん。


 ごうん。


 低い鐘の音が館に響く。



 桜が舞う。


 春の風が吹く。


 百年間閉ざされていた記憶の扉が、


 ついに開かれる。


 誰も知らなかった真実。


 恒星が最後まで抱えていた願い。


 咲希が遺した想い。


 そして。


 朔弥が知らなかった、


 本当の春の結末。


 その物語が始まる。

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