春嵐 ― 高瀬蓮
朝の光が庭を照らしていた。
昨夜まで蕾だった桜が、
ところどころ花を開いている。
淡い桃色。
儚くて。
けれど確かに生きている色だった。
◇
蓮はしばらく窓辺に立っていた。
夢の余韻はまだ残っている。
凛の声。
凛の笑顔。
最後の「ありがとう」。
思い出すだけで胸が痛む。
それでも。
不思議と逃げ出したくはなかった。
◇
朝食を終えた後。
蓮は一人で庭へ出た。
風が吹く。
花びらが一枚、
肩へ落ちる。
凛ならきっと喜んだだろう。
「見ろよ」
思わず呟く。
「咲いてるぞ」
返事はない。
けれど。
寂しさだけではなかった。
◇
桜の木の下に、
古いベンチがある。
蓮はそこへ腰掛けた。
膝の上にはスケッチブック。
最後のページを開く。
桜の絵。
震える線。
優しい色。
そして。
あの約束。
◇
しばらく見つめていると、
ページの端に小さな紙が挟まっていることに気づく。
今まで気づかなかった。
何度も見たはずなのに。
不思議だった。
◇
そっと開く。
小さなメモだった。
折り畳まれて、
長い間隠れていたらしい。
凛の字だった。
◇
そこには。
たった数行だけ、
こう書かれていた。
お兄ちゃんへ
もし約束の日に行けなかったら
私の分まで見てきてね
きっときれいだから
それと
ちゃんと笑ってね
私はお兄ちゃんの笑った顔が好きです
◇
蓮は動けなかった。
文字が滲む。
見えなくなる。
涙だった。
◇
「ずるいだろ」
掠れた声が漏れる。
「こんなの」
笑いながら泣く。
泣きながら笑う。
自分でも分からなくなる。
悲しいのか。
嬉しいのか。
◇
ただ一つ分かるのは、
凛が最後まで兄を心配していたこと。
最後まで、
幸せを願っていたこと。
それだけだった。
◇
風が吹く。
桜が揺れる。
まるで誰かが隣に座ったような気がした。
「見てるか」
蓮は空を見上げる。
「桜」
少し笑う。
「ちゃんと見たぞ」
◇
その時。
どこからか花びらが舞い降りてきた。
ひらり。
ひらり。
最後に一枚。
スケッチブックの上へ落ちる。
まるで返事のように。
◇
帰る時間が来た。
玄関。
朔弥が待っている。
いつものように。
静かに。
◇
「ありがとうございました」
蓮は頭を下げた。
来る時とは違う顔だった。
まだ悲しみはある。
喪失は消えない。
けれど。
俯くだけではなくなっていた。
◇
朔弥は微笑む。
「約束は果たせましたか」
蓮は驚く。
そして。
少し考えてから答えた。
「はい」
声は小さい。
でも確かだった。
「たぶん」
「ちゃんと」
◇
朔弥は何も言わない。
ただ静かに頷いた。
それで十分だった。
◇
蓮は夜想館を後にする。
春の風の中へ。
妹との思い出を抱いて。
妹との約束を抱いて。
そして。
生きていくために。
◇
その背中が見えなくなった頃。
書斎では『春を待つ人たち』が静かに開いていた。
白い頁に文字が浮かぶ。
今までで最も短い言葉。
『約束は残る』
朔弥はその文字を見つめる。
約束。
守れなかった約束。
果たせなかった約束。
百年前の春に残された約束。
恒星と咲希の約束。
◇
その瞬間。
次の頁がひとりでに開いた。
今まで一度も現れなかった日付が、
ゆっくりと浮かび上がる。
大正十四年 四月八日
朔弥の顔から血の気が引く。
忘れるはずのない日。
忘れたくても忘れられない日。
すべてが変わった日。
◇
そして頁の下に、
新たな文字が現れる。
『思い出してください』
暖炉の火が揺れる。
春の風が窓を鳴らす。
百年間閉ざされていた扉が、
いよいよ開こうとしていた。




