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夜想館  作者: 灯野 しおん
第九夜

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春嵐 ― 高瀬蓮

朝の光が庭を照らしていた。


 昨夜まで蕾だった桜が、


 ところどころ花を開いている。


 淡い桃色。


 儚くて。


 けれど確かに生きている色だった。



 蓮はしばらく窓辺に立っていた。


 夢の余韻はまだ残っている。


 凛の声。


 凛の笑顔。


 最後の「ありがとう」。


 思い出すだけで胸が痛む。


 それでも。


 不思議と逃げ出したくはなかった。



 朝食を終えた後。


 蓮は一人で庭へ出た。


 風が吹く。


 花びらが一枚、


 肩へ落ちる。


 凛ならきっと喜んだだろう。


「見ろよ」


 思わず呟く。


「咲いてるぞ」


 返事はない。


 けれど。


 寂しさだけではなかった。



 桜の木の下に、


 古いベンチがある。


 蓮はそこへ腰掛けた。


 膝の上にはスケッチブック。


 最後のページを開く。


 桜の絵。


 震える線。


 優しい色。


 そして。


 あの約束。



 しばらく見つめていると、


 ページの端に小さな紙が挟まっていることに気づく。


 今まで気づかなかった。


 何度も見たはずなのに。


 不思議だった。



 そっと開く。


 小さなメモだった。


 折り畳まれて、


 長い間隠れていたらしい。


 凛の字だった。



 そこには。


 たった数行だけ、


 こう書かれていた。


 お兄ちゃんへ


 もし約束の日に行けなかったら


 私の分まで見てきてね


 きっときれいだから


 それと


 ちゃんと笑ってね


 私はお兄ちゃんの笑った顔が好きです



 蓮は動けなかった。


 文字が滲む。


 見えなくなる。


 涙だった。



「ずるいだろ」


 掠れた声が漏れる。


「こんなの」


 笑いながら泣く。


 泣きながら笑う。


 自分でも分からなくなる。


 悲しいのか。


 嬉しいのか。



 ただ一つ分かるのは、


 凛が最後まで兄を心配していたこと。


 最後まで、


 幸せを願っていたこと。


 それだけだった。



 風が吹く。


 桜が揺れる。


 まるで誰かが隣に座ったような気がした。


「見てるか」


 蓮は空を見上げる。


「桜」


 少し笑う。


「ちゃんと見たぞ」



 その時。


 どこからか花びらが舞い降りてきた。


 ひらり。


 ひらり。


 最後に一枚。


 スケッチブックの上へ落ちる。


 まるで返事のように。



 帰る時間が来た。


 玄関。


 朔弥が待っている。


 いつものように。


 静かに。



「ありがとうございました」


 蓮は頭を下げた。


 来る時とは違う顔だった。


 まだ悲しみはある。


 喪失は消えない。


 けれど。


 俯くだけではなくなっていた。



 朔弥は微笑む。


「約束は果たせましたか」


 蓮は驚く。


 そして。


 少し考えてから答えた。


「はい」


 声は小さい。


 でも確かだった。


「たぶん」


「ちゃんと」



 朔弥は何も言わない。


 ただ静かに頷いた。


 それで十分だった。



 蓮は夜想館を後にする。


 春の風の中へ。


 妹との思い出を抱いて。


 妹との約束を抱いて。


 そして。


 生きていくために。



 その背中が見えなくなった頃。


 書斎では『春を待つ人たち』が静かに開いていた。


 白い頁に文字が浮かぶ。


 今までで最も短い言葉。


 『約束は残る』


 朔弥はその文字を見つめる。


 約束。


 守れなかった約束。


 果たせなかった約束。


 百年前の春に残された約束。


 恒星と咲希の約束。



 その瞬間。


 次の頁がひとりでに開いた。


 今まで一度も現れなかった日付が、


 ゆっくりと浮かび上がる。


 大正十四年 四月八日


 朔弥の顔から血の気が引く。


 忘れるはずのない日。


 忘れたくても忘れられない日。


 すべてが変わった日。



 そして頁の下に、


 新たな文字が現れる。


 『思い出してください』


 暖炉の火が揺れる。


 春の風が窓を鳴らす。


 百年間閉ざされていた扉が、


 いよいよ開こうとしていた。

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