春嵐 ― 高瀬蓮④
夢だった。
けれど。
それは夢というにはあまりにも鮮明だった。
◇
春の日差し。
柔らかな風。
病院の屋上庭園。
白いベンチ。
そして。
桜色のカーディガンを羽織った少女。
凛だった。
◇
「お兄ちゃん」
振り返る。
いつもの笑顔。
いつもの声。
何も変わっていない。
病気なんてなかったみたいに。
元気だった頃のまま。
◇
蓮は言葉を失う。
会いたかった。
ずっと。
ずっと会いたかった。
夢だと分かっていても。
胸が苦しくなる。
◇
「凛」
やっと名前を呼ぶ。
声が震える。
凛は少し困ったように笑った。
「泣きそうな顔してる」
昔と同じ言い方だった。
蓮は思わず顔を背ける。
◇
「約束」
蓮が呟く。
「守れなかった」
凛は首を傾げた。
「何が?」
蓮は驚く。
「桜だよ」
「一緒に見に行くって」
「約束しただろ」
◇
凛はしばらく黙っていた。
そして。
静かに笑った。
「覚えてたんだ」
その言葉が。
なぜか胸に刺さる。
◇
「当たり前だろ」
蓮は少し怒ったように言う。
「忘れるわけない」
「ずっと」
「ずっと後悔してる」
凛は黙って聞いていた。
優しい目で。
あの日と同じように。
◇
やがて。
凛は桜を見上げた。
花びらが風に揺れる。
「ねえ」
凛が言う。
「お兄ちゃん」
「私ね」
少し照れたように笑う。
◇
「本当は知ってたよ」
蓮の呼吸が止まる。
「何を」
「自分が治らないかもしれないこと」
世界が静かになる。
「知ってた」
凛は穏やかだった。
あまりにも穏やかで。
蓮の方が苦しくなる。
◇
「だからね」
凛は続ける。
「桜を見たいって言ったの」
「お兄ちゃんと」
「約束したかったから」
蓮は意味が分からなかった。
◇
「約束?」
「うん」
凛は頷く。
「約束ってね」
「叶うためだけにあるんじゃないんだよ」
風が吹く。
花びらが舞う。
◇
「約束した時間も」
「約束した思い出も」
「全部宝物になるから」
蓮は何も言えない。
胸が苦しい。
涙が出そうになる。
◇
「私ね」
凛は笑った。
優しく。
少しだけ寂しそうに。
「お兄ちゃんと約束できて嬉しかった」
その言葉で。
何かが崩れた。
◇
「俺は」
蓮の声が掠れる。
「守れなかった」
「行けなかった」
「見せてやれなかった」
涙が落ちる。
一滴。
また一滴。
◇
凛は首を横に振った。
「違うよ」
静かな声。
だけど確かな声。
「今、来てるじゃない」
蓮は顔を上げる。
「え」
「夜想館」
凛は笑う。
「私が行きたかった場所」
「お兄ちゃん来てくれた」
涙が溢れる。
止まらない。
◇
「約束」
凛が言う。
「ちゃんと叶えてくれたよ」
「私の代わりに」
蓮は声にならない。
泣くしかできない。
◇
凛は少しだけ背伸びをする。
昔からの癖だった。
何か大事なことを言う前にする癖。
「だから」
優しく笑う。
「ありがとう」
その一言で。
蓮は崩れるように泣いた。
子供みたいに。
何も隠さず。
声を上げて。
◇
景色が薄れていく。
夢が終わる。
凛の姿が遠ざかる。
「待って」
蓮は手を伸ばす。
けれど。
凛は悲しそうな顔をしなかった。
笑っていた。
とても穏やかに。
◇
最後に。
凛は小さく手を振った。
そして。
春風の中へ溶けるように消えていった。
残ったのは、
桜の花びらだけだった。
◇
朝。
蓮は目を覚ます。
枕が濡れていた。
涙の跡だった。
胸は痛い。
今も苦しい。
凛はいない。
その事実は変わらない。
けれど。
昨夜までとは少し違っていた。
後悔だけだった約束が。
温かな思い出へ変わり始めていた。
◇
窓の外を見る。
夜想館の桜が、
とうとう咲き始めていた。
今年最初の花が。
静かに。
優しく。
春を告げていた。




