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夜想館  作者: 灯野 しおん
第九夜

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春嵐 ― 高瀬蓮④

夢だった。


 けれど。


 それは夢というにはあまりにも鮮明だった。



 春の日差し。


 柔らかな風。


 病院の屋上庭園。


 白いベンチ。


 そして。


 桜色のカーディガンを羽織った少女。


 凛だった。



「お兄ちゃん」


 振り返る。


 いつもの笑顔。


 いつもの声。


 何も変わっていない。


 病気なんてなかったみたいに。


 元気だった頃のまま。



 蓮は言葉を失う。


 会いたかった。


 ずっと。


 ずっと会いたかった。


 夢だと分かっていても。


 胸が苦しくなる。



「凛」


 やっと名前を呼ぶ。


 声が震える。


 凛は少し困ったように笑った。


「泣きそうな顔してる」


 昔と同じ言い方だった。


 蓮は思わず顔を背ける。



「約束」


 蓮が呟く。


「守れなかった」


 凛は首を傾げた。


「何が?」


 蓮は驚く。


「桜だよ」


「一緒に見に行くって」


「約束しただろ」



 凛はしばらく黙っていた。


 そして。


 静かに笑った。


「覚えてたんだ」


 その言葉が。


 なぜか胸に刺さる。



「当たり前だろ」


 蓮は少し怒ったように言う。


「忘れるわけない」


「ずっと」


「ずっと後悔してる」


 凛は黙って聞いていた。


 優しい目で。


 あの日と同じように。



 やがて。


 凛は桜を見上げた。


 花びらが風に揺れる。


「ねえ」


 凛が言う。


「お兄ちゃん」


「私ね」


 少し照れたように笑う。



「本当は知ってたよ」


 蓮の呼吸が止まる。


「何を」


「自分が治らないかもしれないこと」


 世界が静かになる。


「知ってた」


 凛は穏やかだった。


 あまりにも穏やかで。


 蓮の方が苦しくなる。



「だからね」


 凛は続ける。


「桜を見たいって言ったの」


「お兄ちゃんと」


「約束したかったから」


 蓮は意味が分からなかった。



「約束?」


「うん」


 凛は頷く。


「約束ってね」


「叶うためだけにあるんじゃないんだよ」


 風が吹く。


 花びらが舞う。



「約束した時間も」


「約束した思い出も」


「全部宝物になるから」


 蓮は何も言えない。


 胸が苦しい。


 涙が出そうになる。



「私ね」


 凛は笑った。


 優しく。


 少しだけ寂しそうに。


「お兄ちゃんと約束できて嬉しかった」


 その言葉で。


 何かが崩れた。



「俺は」


 蓮の声が掠れる。


「守れなかった」


「行けなかった」


「見せてやれなかった」


 涙が落ちる。


 一滴。


 また一滴。



 凛は首を横に振った。


「違うよ」


 静かな声。


 だけど確かな声。


「今、来てるじゃない」


 蓮は顔を上げる。


「え」


「夜想館」


 凛は笑う。


「私が行きたかった場所」


「お兄ちゃん来てくれた」


 涙が溢れる。


 止まらない。



「約束」


 凛が言う。


「ちゃんと叶えてくれたよ」


「私の代わりに」


 蓮は声にならない。


 泣くしかできない。



 凛は少しだけ背伸びをする。


 昔からの癖だった。


 何か大事なことを言う前にする癖。


「だから」


 優しく笑う。


「ありがとう」


 その一言で。


 蓮は崩れるように泣いた。


 子供みたいに。


 何も隠さず。


 声を上げて。



 景色が薄れていく。


 夢が終わる。


 凛の姿が遠ざかる。


「待って」


 蓮は手を伸ばす。


 けれど。


 凛は悲しそうな顔をしなかった。


 笑っていた。


 とても穏やかに。



 最後に。


 凛は小さく手を振った。


 そして。


 春風の中へ溶けるように消えていった。


 残ったのは、


 桜の花びらだけだった。



 朝。


 蓮は目を覚ます。


 枕が濡れていた。


 涙の跡だった。


 胸は痛い。


 今も苦しい。


 凛はいない。


 その事実は変わらない。


 けれど。


 昨夜までとは少し違っていた。


 後悔だけだった約束が。


 温かな思い出へ変わり始めていた。



 窓の外を見る。


 夜想館の桜が、


 とうとう咲き始めていた。


 今年最初の花が。


 静かに。


 優しく。


 春を告げていた。

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