春嵐 ― 高瀬蓮③
宿帳を書く。
高瀬 蓮
その名前が記された瞬間。
書斎の奥で、
『春を待つ人たち』の頁が静かに開いた。
誰にも気づかれずに。
◇
夕方。
部屋へ案内された後も、
蓮は落ち着かなかった。
窓から庭を見下ろす。
桜。
風。
古いベンチ。
どれも。
凛が好きそうな景色だった。
◇
「なんでだよ」
ぽつりと呟く。
答える人はいない。
「なんでお前なんだよ」
声が震える。
ずっと飲み込んできた言葉だった。
「俺じゃなくて」
「なんで」
「凛なんだよ」
拳を握る。
初めてだった。
誰もいない場所で、
そんなことを口にしたのは。
◇
良い兄でいようとした。
両親の前では。
泣かないようにした。
強くいようとした。
でも。
本当は違った。
本当は。
悔しかった。
理不尽だった。
許せなかった。
◇
夕食後。
ラウンジに降りる。
暖炉の火が揺れている。
客は他にいない。
静かな夜。
◇
「眠れそうにありませんか」
朔弥だった。
蓮は苦笑する。
「そんな顔してますか」
「少しだけ」
朔弥も微かに笑った。
◇
しばらく沈黙が続く。
暖炉の薪がはぜる音だけが聞こえる。
やがて。
蓮は抱えていたスケッチブックを差し出した。
「妹のです」
朔弥は受け取らない。
ただ。
静かに待つ。
話したくなるまで。
それが分かった。
◇
「去年」
蓮が言う。
「死にました」
短い言葉。
それだけで十分だった。
朔弥は何も言わない。
◇
「病気でした」
「ずっと」
「頑張ってたんです」
言葉が少しずつ溢れる。
「なのに」
「最後まで笑ってた」
「俺の方が泣きそうだったのに」
「ずっと」
「大丈夫って」
蓮は俯く。
◇
「約束したんです」
スケッチブックを開く。
最後のページ。
桜の絵。
そして。
春になったら
一緒に桜を見に行こうね
その文字。
◇
「結局」
蓮の声が掠れる。
「守れなかった」
「俺」
「兄ちゃんなのに」
そこで言葉が途切れる。
もう続かなかった。
◇
暖炉の火が揺れる。
しばらくして。
朔弥が静かに口を開いた。
「高瀬さん」
蓮は顔を上げる。
「約束には」
少しだけ考える。
「果たし方が一つではないものもあります」
◇
蓮は意味が分からなかった。
けれど。
その言葉が妙に胸に残った。
◇
夜は更けていく。
そして。
その夜。
蓮は夢を見る。
桜の下で笑う凛の夢を。
けれどその夢は、
ただ懐かしいだけの夢ではなかった。
今まで誰にも話さなかった、
凛の本当の願いを知る夢だった。
兄として。
一人の人間として。
涙が止まらなくなる夢だった。




