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夜想館  作者: 灯野 しおん
第九夜

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春嵐 ― 高瀬蓮③

 宿帳を書く。


 高瀬 蓮


 その名前が記された瞬間。


 書斎の奥で、


 『春を待つ人たち』の頁が静かに開いた。


 誰にも気づかれずに。



 夕方。


 部屋へ案内された後も、


 蓮は落ち着かなかった。


 窓から庭を見下ろす。


 桜。


 風。


 古いベンチ。


 どれも。


 凛が好きそうな景色だった。



「なんでだよ」


 ぽつりと呟く。


 答える人はいない。


「なんでお前なんだよ」


 声が震える。


 ずっと飲み込んできた言葉だった。


「俺じゃなくて」


「なんで」


「凛なんだよ」


 拳を握る。


 初めてだった。


 誰もいない場所で、


 そんなことを口にしたのは。



 良い兄でいようとした。


 両親の前では。


 泣かないようにした。


 強くいようとした。


 でも。


 本当は違った。


 本当は。


 悔しかった。


 理不尽だった。


 許せなかった。



 夕食後。


 ラウンジに降りる。


 暖炉の火が揺れている。


 客は他にいない。


 静かな夜。



「眠れそうにありませんか」


 朔弥だった。


 蓮は苦笑する。


「そんな顔してますか」


「少しだけ」


 朔弥も微かに笑った。



 しばらく沈黙が続く。


 暖炉の薪がはぜる音だけが聞こえる。


 やがて。


 蓮は抱えていたスケッチブックを差し出した。


「妹のです」


 朔弥は受け取らない。


 ただ。


 静かに待つ。


 話したくなるまで。


 それが分かった。



「去年」


 蓮が言う。


「死にました」


 短い言葉。


 それだけで十分だった。


 朔弥は何も言わない。



「病気でした」


「ずっと」


「頑張ってたんです」


 言葉が少しずつ溢れる。


「なのに」


「最後まで笑ってた」


「俺の方が泣きそうだったのに」


「ずっと」


「大丈夫って」


 蓮は俯く。



「約束したんです」


 スケッチブックを開く。


 最後のページ。


 桜の絵。


 そして。


 春になったら


 一緒に桜を見に行こうね


 その文字。



「結局」


 蓮の声が掠れる。


「守れなかった」


「俺」


「兄ちゃんなのに」


 そこで言葉が途切れる。


 もう続かなかった。



 暖炉の火が揺れる。


 しばらくして。


 朔弥が静かに口を開いた。


「高瀬さん」


 蓮は顔を上げる。


「約束には」


 少しだけ考える。


「果たし方が一つではないものもあります」



 蓮は意味が分からなかった。


 けれど。


 その言葉が妙に胸に残った。



 夜は更けていく。


 そして。


 その夜。


 蓮は夢を見る。


 桜の下で笑う凛の夢を。


 けれどその夢は、


 ただ懐かしいだけの夢ではなかった。


 今まで誰にも話さなかった、


 凛の本当の願いを知る夢だった。


 兄として。


 一人の人間として。


 涙が止まらなくなる夢だった。

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