春を待つ人たち③
夜想館に朝日が差し込んでいる。
こんな光景を、
朔弥は何度も見てきた。
百年間。
何万回も。
けれど。
今日の朝は違った。
◇
胸の奥にあった重さが消えていた。
完全ではない。
咲希を忘れたわけでもない。
恒星を忘れたわけでもない。
ただ。
悲しみだけではなくなっていた。
◇
思い出す。
咲希の笑顔を。
恒星の不器用な優しさを。
桜の下で笑い合っていた二人を。
そして。
初めて思う。
ああ。
あの二人は幸せだったのだと。
短くても。
儚くても。
確かに幸せな春を生きたのだと。
◇
窓の外を見る。
桜が満開だった。
風が吹くたびに花びらが舞う。
まるで祝福のように。
その時。
館の玄関で小さな音がした。
からん。
ベルだった。
朔弥は振り返る。
時計を見る。
朝の六時。
こんな時間に客が来ることは珍しい。
◇
ラウンジを抜け、
玄関へ向かう。
扉を開く。
春風が吹き込む。
桜の花びらが舞う。
そして。
そこには一人の女性が立っていた。
二十代半ばほどだろうか。
少し疲れた顔をしている。
大きな旅行鞄。
どこか途方に暮れたような目。
「すみません」
女性が言う。
「ここ……宿ですか?」
◇
朔弥はしばらく答えなかった。
その姿を見ていた。
また一人。
春を待つ人が来たのだ。
昔なら。
そのことを少し悲しく思ったかもしれない。
誰かが傷ついていることを。
誰かが迷っていることを。
けれど今は違う。
咲希の願い。
恒星の約束。
百年間守り続けた想い。
その意味が分かったから。
◇
朔弥は微笑む。
穏やかに。
心から。
「ようこそ」
春風が吹く。
桜が舞う。
朝日が差し込む。
「夜想館へ」
女性は少し驚いた顔をする。
そして。
安心したように笑った。
その笑顔を見て、
朔弥もまた微笑む。
もう待たなくていい。
春は来ている。
けれど。
春を待つ人はこれからも現れる。
◇
だから夜想館は在り続ける。
悲しみの冬を越えるために。
誰かが再び歩き出すために。
その小さな灯火として。
桜が舞う。
春が始まる。
新しい物語が始まる。
終わりではなく。
続いていくために。
◇
そして書斎では、
役目を終えた『春を待つ人たち』が静かに閉じられていた。
表紙にはもう何も書かれていない。
けれど最後の頁には、
誰にも見えない文字が残されていた。
「ありがとう」
「また春に会いましょう」
◇
窓の外。
満開の桜の向こうで。
恒星と咲希が並んで歩いているような気がした。
その背中は少しずつ遠ざかり、
やがて春の光の中へ溶けていく。
もう振り返らない。
もう迷わない。
約束は果たされたのだから。




