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夜想館  作者: 灯野 しおん
終夜

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春を待つ人たち③

 夜想館に朝日が差し込んでいる。


 こんな光景を、


 朔弥は何度も見てきた。


 百年間。


 何万回も。


 けれど。


 今日の朝は違った。



 胸の奥にあった重さが消えていた。


 完全ではない。


 咲希を忘れたわけでもない。


 恒星を忘れたわけでもない。


 ただ。


 悲しみだけではなくなっていた。



 思い出す。


 咲希の笑顔を。


 恒星の不器用な優しさを。


 桜の下で笑い合っていた二人を。


 そして。


 初めて思う。


 ああ。


 あの二人は幸せだったのだと。


 短くても。


 儚くても。


 確かに幸せな春を生きたのだと。



 窓の外を見る。


 桜が満開だった。


 風が吹くたびに花びらが舞う。


 まるで祝福のように。


 その時。


 館の玄関で小さな音がした。


 からん。


 ベルだった。


 朔弥は振り返る。


 時計を見る。


 朝の六時。


 こんな時間に客が来ることは珍しい。



 ラウンジを抜け、


 玄関へ向かう。


 扉を開く。


 春風が吹き込む。


 桜の花びらが舞う。


 そして。


 そこには一人の女性が立っていた。


 二十代半ばほどだろうか。


 少し疲れた顔をしている。


 大きな旅行鞄。


 どこか途方に暮れたような目。


「すみません」


 女性が言う。


「ここ……宿ですか?」



 朔弥はしばらく答えなかった。


 その姿を見ていた。


 また一人。


 春を待つ人が来たのだ。


 昔なら。


 そのことを少し悲しく思ったかもしれない。


 誰かが傷ついていることを。


 誰かが迷っていることを。


 けれど今は違う。


 咲希の願い。


 恒星の約束。


 百年間守り続けた想い。


 その意味が分かったから。



 朔弥は微笑む。


 穏やかに。


 心から。


「ようこそ」


 春風が吹く。


 桜が舞う。


 朝日が差し込む。


「夜想館へ」


 女性は少し驚いた顔をする。


 そして。


 安心したように笑った。


 その笑顔を見て、


 朔弥もまた微笑む。


 もう待たなくていい。


 春は来ている。


 けれど。


 春を待つ人はこれからも現れる。



 だから夜想館は在り続ける。


 悲しみの冬を越えるために。


 誰かが再び歩き出すために。


 その小さな灯火として。


 桜が舞う。


 春が始まる。


 新しい物語が始まる。


 終わりではなく。


 続いていくために。



 そして書斎では、


 役目を終えた『春を待つ人たち』が静かに閉じられていた。


 表紙にはもう何も書かれていない。


 けれど最後の頁には、


 誰にも見えない文字が残されていた。


 「ありがとう」


 「また春に会いましょう」



 窓の外。


 満開の桜の向こうで。


 恒星と咲希が並んで歩いているような気がした。


 その背中は少しずつ遠ざかり、


 やがて春の光の中へ溶けていく。


 もう振り返らない。


 もう迷わない。


 約束は果たされたのだから。

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