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夜想館  作者: 灯野 しおん
第一夜

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6/23

春雨ー雨宮紗希⑥

しばらくの間。

 紗希は泣いていた。


 悠真は急かさなかった。

 慰めることもしなかった。


 ただそこにいてくれた。


 生前と同じように。


 それがかえって優しかった。


 ようやく涙が落ち着いた頃。


 悠真はピアノの椅子から立ち上がった。

「少し歩く?」

 紗希は涙を拭いながら頷く。


 二人は音楽室を出た。

 ここは夜想館の廊下だろうか。

 廊下は静かだった。


 ランプの灯りが床に丸い光を落としている。


 窓の外では雨。

 館の中では時計の音だけが響いていた。


 まるで時間がゆっくり流れているようだった。


「変わらないな」

 悠真が笑う。

「何が?」

「泣くとすぐ鼻が赤くなるところ」

「……うるさい」

 紗希は思わず笑った。


 本当に。

 本当にいつも通りだった。


 だから余計に苦しい。


 もういない人のはずなのに。


 二人は食堂へ続く廊下を歩く。

 途中で大きな窓があった。

 雨粒がガラスを伝っている。


 紗希は立ち止まった。

「ねえ」

「ん?」

「怒ってない?」


 悠真が首を傾げる。

「何を?」


「私」

 紗希は窓の外を見たまま言う。


「事故の日」

 声が震える。


「もっと早く電話に出てたらとか」

「もっと会っておけばよかったとか」

「色々考えた」


 ずっと。

 一年間ずっと。


 後悔してきた。


 悠真は静かに聞いていた。

「ごめんね」

 紗希は俯く。

「最後まで間に合わなくて」


 長い沈黙。

 雨音だけが聞こえる。


 そして。

 悠真は少し困ったように笑った。


「それさ」

「うん」


「俺も同じこと考えた」


 紗希が顔を上げる。

「え?」


「もっと色々できたかなって」

 悠真は肩を竦める。


「結婚式とか」

「旅行とか」

「子どもの名前とか」


 紗希の目からまた涙が溢れる。


 全部。

 二人で話していた未来だった。


「でもさ」

 悠真は優しく続ける。


「それって未来の話なんだよ」


 静かな声だった。

「未来があったから考えられたことなんだ」


 紗希は黙って聞く。

「失った未来ばかり見てたら」


 悠真は窓の外を見る。

「一緒にいた時間まで悲しくなる」


 雨が静かに降っている。


 紗希の胸の奥で何かが揺れた。


「俺は」

 悠真は微笑む。


「出会えたことまで無かったことにはしたくないな」


 その言葉が。

 静かに。

 深く。

 紗希の心へ落ちていった。


 失った未来。

 叶わなかった約束。

 確かに悲しい。


 でも。

 二人で過ごした時間は消えない。


 笑った日も。

 喧嘩した日も。

 一緒に選んだ指輪も。

 全部。

 本当にあったものだ。


 紗希は目を閉じる。

 そして小さく頷いた。

「……うん」


 その返事を聞いて。

 悠真は安心したように笑った。


 まるで。

 ずっと伝えたかった言葉が、

 ようやく届いたみたいに。

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