春雨ー雨宮紗希⑥
しばらくの間。
紗希は泣いていた。
悠真は急かさなかった。
慰めることもしなかった。
ただそこにいてくれた。
生前と同じように。
それがかえって優しかった。
ようやく涙が落ち着いた頃。
悠真はピアノの椅子から立ち上がった。
「少し歩く?」
紗希は涙を拭いながら頷く。
二人は音楽室を出た。
ここは夜想館の廊下だろうか。
廊下は静かだった。
ランプの灯りが床に丸い光を落としている。
窓の外では雨。
館の中では時計の音だけが響いていた。
まるで時間がゆっくり流れているようだった。
「変わらないな」
悠真が笑う。
「何が?」
「泣くとすぐ鼻が赤くなるところ」
「……うるさい」
紗希は思わず笑った。
本当に。
本当にいつも通りだった。
だから余計に苦しい。
もういない人のはずなのに。
二人は食堂へ続く廊下を歩く。
途中で大きな窓があった。
雨粒がガラスを伝っている。
紗希は立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
「怒ってない?」
悠真が首を傾げる。
「何を?」
「私」
紗希は窓の外を見たまま言う。
「事故の日」
声が震える。
「もっと早く電話に出てたらとか」
「もっと会っておけばよかったとか」
「色々考えた」
ずっと。
一年間ずっと。
後悔してきた。
悠真は静かに聞いていた。
「ごめんね」
紗希は俯く。
「最後まで間に合わなくて」
長い沈黙。
雨音だけが聞こえる。
そして。
悠真は少し困ったように笑った。
「それさ」
「うん」
「俺も同じこと考えた」
紗希が顔を上げる。
「え?」
「もっと色々できたかなって」
悠真は肩を竦める。
「結婚式とか」
「旅行とか」
「子どもの名前とか」
紗希の目からまた涙が溢れる。
全部。
二人で話していた未来だった。
「でもさ」
悠真は優しく続ける。
「それって未来の話なんだよ」
静かな声だった。
「未来があったから考えられたことなんだ」
紗希は黙って聞く。
「失った未来ばかり見てたら」
悠真は窓の外を見る。
「一緒にいた時間まで悲しくなる」
雨が静かに降っている。
紗希の胸の奥で何かが揺れた。
「俺は」
悠真は微笑む。
「出会えたことまで無かったことにはしたくないな」
その言葉が。
静かに。
深く。
紗希の心へ落ちていった。
失った未来。
叶わなかった約束。
確かに悲しい。
でも。
二人で過ごした時間は消えない。
笑った日も。
喧嘩した日も。
一緒に選んだ指輪も。
全部。
本当にあったものだ。
紗希は目を閉じる。
そして小さく頷いた。
「……うん」
その返事を聞いて。
悠真は安心したように笑った。
まるで。
ずっと伝えたかった言葉が、
ようやく届いたみたいに。




