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夜想館  作者: 灯野 しおん
第一夜

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春雨 ー 雨宮 紗希⑤

しばらくの間、紗希は泣いていた。


 声を押し殺しながら。


 まるで一年分の涙を流すように。


 悠真は何も言わない。


 ただ静かにそこにいた。


 それだけで良かった。


 紗希は何度も夢を見た。


 駅で見かけた気がした。


 街角で声を聞いた気がした。


 振り返ればいるような気がした。


 けれど全部違った。


 だから今も信じられない。


「……本当に悠真なの?」


 ようやく顔を上げる。


 悠真は少し考えるように笑った。


「どうだろうな」


「なによ、それ」


「俺にもよく分からない」


 紗希は涙を拭きながら苦笑する。


 その言い方があまりにも悠真らしかった。


 昔からそうだった。


 困ると少し笑ってごまかす。


「相変わらずだね」


「紗希も」


「どこが」


「泣き虫なところ」


 紗希は思わず睨む。


 けれど次の瞬間にはまた涙が溢れていた。


 悠真は困ったように肩を竦めた。


「ほら」


「うるさい」


 二人とも少し笑う。


 それだけのことなのに。


 胸が苦しくなるほど懐かしかった。


 音楽室の窓を雨粒が叩く。


 ピアノの上には古い譜面が置かれていた。


 紗希はゆっくり尋ねる。


「……痛かった?」


 悠真の表情が少しだけ柔らかくなる。


 事故のことだ。


 ずっと聞きたかった。


 ずっと聞けなかったこと。


「少しだけ」


 静かな答え。


「でも怖かったのは一瞬だった」


 紗希は唇を噛む。


 自分だけが取り残された気がしていた。


 苦しいのは自分だけだと思っていた。


 けれど。


 悠真にも終わりの瞬間があったのだ。


「ごめん」


 紗希が呟く。


「なんで謝るんだよ」


「だって……」


 言葉が続かない。


 悠真は首を横に振った。


「謝るのは違う」


 穏やかな声だった。


「紗希」


 名前を呼ばれる。


 何度も聞いた声。


 けれど今夜は少し違う。


 最後に聞く声になるかもしれないから。


「結婚できなかったな」


 紗希の肩が震えた。


 それが一番痛かった。


 恋人を失ったこと。


 それだけじゃない。


 二人で思い描いた未来が消えたこと。


 新しい家。


 休日の買い物。


 いつか生まれるかもしれなかった子ども。


 全部。


 来なかった未来。


 悠真は窓の外を見た。


 雨が降っている。


「悔しかったよ」


 ぽつりと言う。


「すごく」


 紗希は息を呑む。


「でもさ」


 悠真は笑った。


「出会わなきゃ良かったとは思わない」


 その言葉に。


 紗希の目からまた涙が零れる。


「俺は幸せだった」


 静かな声。


「紗希といた時間」


 雨音が遠くなる。


「だから」


 悠真は優しく笑った。


「紗希も幸せになれ」


 その言葉が。


 紗希の胸の一番奥に届いた。


 ずっと許せなかった。


 笑って生きることを。


 前へ進むことを。


 忘れるみたいで怖かったから。


 でも。


 忘れることと、

 生きることは違うのかもしれない。


 音楽室には静かな時間が流れていた。


 窓の外では、

 春雨が優しく降り続いていた。

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