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夜想館  作者: 灯野 しおん
第一夜

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4/24

春雨 ー 雨宮 紗希④

客室へ案内されたあとも、紗希はしばらく眠れなかった。


 ベッドの脇には小さな丸机があり、その上には白い陶器のカップが置かれている。

 湯気はもう消えていたが、ほのかに花の香りが残っていた。


 紗希は窓辺へ歩み寄った。


 ガラス越しに見える庭は闇に沈んでいる。


 雨粒だけが灯りを受けて輝いていた。


「……会いたいな」


 また口から零れてしまう。


 何度も思った。


 何度も願った。


 もう一度だけでいい。


 一言だけでもいい。


 会いたい。


 それだけだった。


 胸の奥が痛む。


 指先で婚約指輪の箱を握りしめた。


 鞄の奥に入れたままの小さな箱。


 約束したのに。


 使われることのなかった未来。


 紗希は目を閉じる。


 彼の笑顔が浮かぶ。


 声が浮かぶ。


 春の風の匂いまで思い出せるのに。


 もう触れることはできない。


 涙が一筋こぼれた。


 その時だった。


 どこからか音が聞こえた。


 かすかなピアノの音。


 優しく流れる旋律。


 紗希は顔を上げた。


「……?」


 館のどこかから聞こえてくる。


 不思議と心が引かれた。


 部屋を出る。


 廊下には誰もいない。


 ランプの灯りが静かに並んでいる。


 音を辿るように歩いていく。


 やがて小さな扉の前で足が止まった。


 少しだけ開いている。


 そっと覗く。


 そこは音楽室だった。


 古いグランドピアノ。


 窓辺。


 そして。


 一人の男性が座っていた。


 後ろ姿だった。


 静かに鍵盤へ指を置いている。


 紗希の呼吸が止まる。


 見間違えるはずがない。


 忘れたことなどない。


「……」


 声が出ない。


 男性がゆっくり振り返る。


 優しい目。


 少し照れたような笑顔。


 何度も見た顔。


「久しぶり」


 その一言で。


 紗希の世界が止まった。


「……どうして」


 震える声。


「どうして……」


 男性は困ったように笑う。


「そんな顔するなよ」


 紗希は立ち尽くした。


 涙が溢れる。


 夢だと思った。


 幻だと思った。


 けれど。


 目の前の人は確かにそこにいた。


「……悠真」


 初めて名前を呼ぶ。


 男性は静かに頷いた。


「うん」


 紗希は一歩近づく。


 また一歩。


 そして。


 その場にしゃがみ込んだ。


 涙が止まらなかった。


「会いたかった……」


 嗚咽混じりの声。


「すごく……会いたかった……」


 悠真は何も言わない。


 ただ優しく見つめていた。


 まるで。


 ずっと待っていたみたいに。


 窓の外では春雨が降り続いている。


 けれど夜想館の中だけは、不思議なくらい穏やかな時間が流れていた。


 紗希にとって、止まっていた時間が再び動き始める夜だった。。

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