春雨 ー 雨宮 紗希④
客室へ案内されたあとも、紗希はしばらく眠れなかった。
ベッドの脇には小さな丸机があり、その上には白い陶器のカップが置かれている。
湯気はもう消えていたが、ほのかに花の香りが残っていた。
紗希は窓辺へ歩み寄った。
ガラス越しに見える庭は闇に沈んでいる。
雨粒だけが灯りを受けて輝いていた。
「……会いたいな」
また口から零れてしまう。
何度も思った。
何度も願った。
もう一度だけでいい。
一言だけでもいい。
会いたい。
それだけだった。
胸の奥が痛む。
指先で婚約指輪の箱を握りしめた。
鞄の奥に入れたままの小さな箱。
約束したのに。
使われることのなかった未来。
紗希は目を閉じる。
彼の笑顔が浮かぶ。
声が浮かぶ。
春の風の匂いまで思い出せるのに。
もう触れることはできない。
涙が一筋こぼれた。
その時だった。
どこからか音が聞こえた。
かすかなピアノの音。
優しく流れる旋律。
紗希は顔を上げた。
「……?」
館のどこかから聞こえてくる。
不思議と心が引かれた。
部屋を出る。
廊下には誰もいない。
ランプの灯りが静かに並んでいる。
音を辿るように歩いていく。
やがて小さな扉の前で足が止まった。
少しだけ開いている。
そっと覗く。
そこは音楽室だった。
古いグランドピアノ。
窓辺。
そして。
一人の男性が座っていた。
後ろ姿だった。
静かに鍵盤へ指を置いている。
紗希の呼吸が止まる。
見間違えるはずがない。
忘れたことなどない。
「……」
声が出ない。
男性がゆっくり振り返る。
優しい目。
少し照れたような笑顔。
何度も見た顔。
「久しぶり」
その一言で。
紗希の世界が止まった。
「……どうして」
震える声。
「どうして……」
男性は困ったように笑う。
「そんな顔するなよ」
紗希は立ち尽くした。
涙が溢れる。
夢だと思った。
幻だと思った。
けれど。
目の前の人は確かにそこにいた。
「……悠真」
初めて名前を呼ぶ。
男性は静かに頷いた。
「うん」
紗希は一歩近づく。
また一歩。
そして。
その場にしゃがみ込んだ。
涙が止まらなかった。
「会いたかった……」
嗚咽混じりの声。
「すごく……会いたかった……」
悠真は何も言わない。
ただ優しく見つめていた。
まるで。
ずっと待っていたみたいに。
窓の外では春雨が降り続いている。
けれど夜想館の中だけは、不思議なくらい穏やかな時間が流れていた。
紗希にとって、止まっていた時間が再び動き始める夜だった。。




