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夜想館  作者: 灯野 しおん
第九夜

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春嵐 ― 高瀬蓮

春が嫌いだった。


 昔は好きだったはずなのに。


 いつからだろう。


 桜を見るのが苦しくなったのは。



 高瀬蓮、十七歳。


 高校二年生。


 教室の窓から見える桜を、


 今日も見ないふりをしていた。



「蓮ー」


 友人が呼ぶ。


「帰ろうぜ」


「先帰って」


「またかよ」


 友人は困った顔をする。


 最近ずっとこうだった。


 誘われても断る。


 部活も辞めた。


 休日も出かけない。


 笑うことも減った。


 周りは気を遣ってくれる。


 それが余計につらかった。



 家に帰る。


 静かな家だった。


 母は仕事。


 父も帰りが遅い。


 そして。


 もう一人いるはずの家族は、


 いない。



 妹の凛。


 十四歳だった。


 去年の春。


 病気で亡くなった。



 凛はよく笑う子だった。


 体が弱かったくせに、


 いつも誰かを励ましていた。


 自分が苦しい時ですら。


 家族を心配していた。


 そんな妹だった。



 蓮は妹の部屋の前で立ち止まる。


 今もそのままだ。


 机も。


 本棚も。


 ぬいぐるみも。


 何も変わっていない。


 変えられない。


 誰も。



 部屋へ入る。


 窓際の机。


 そこに一冊のスケッチブックが置かれている。


 何度も開いた。


 何度も閉じた。


 それでも手放せない。


 凛が最後まで描いていたものだから。



 ぱらり。


 ページをめくる。


 花。


 猫。


 空。


 家族。


 どれも柔らかな絵だった。


 見ているだけで、


 凛の声が聞こえてきそうになる。



 そして最後のページ。


 桜の絵。


 少し歪んでいる。


 入院中に描いたからだろう。


 線が震えている。


 それでも。


 優しい桜だった。



 その横に書かれた文字。


 お兄ちゃん


 春になったら


 一緒に桜を見に行こうね


 蓮は目を閉じる。


 見られなかった。


 結局。


 その春は来なかった。



「ごめんな」


 誰もいない部屋で呟く。


「約束守れなくて」


 何度も言った言葉だった。


 もう届かない相手へ。


 何度も。


 何度も。



 その夜。


 夢を見る。


 桜吹雪。


 石畳。


 古い洋館。


 見たことのない場所。


 けれど。


 不思議と懐かしい。



 夢の中で。


 誰かが言った。


「お待ちしております」


 穏やかな声。


 知らない声。


 それなのに。


 胸の奥が痛くなる。



 目が覚める。


 朝だった。


 枕元に、


 一枚の紙が落ちている。


 不思議だった。


 昨夜まではなかったはずなのに。



 拾い上げる。


 古い紙片。


 そこには住所が書かれていた。


 見知らぬ場所。


 そして下に小さな文字。


 夜想館


 蓮は息を呑む。


 昨夜の夢に出てきた名前だった。



 偶然だろうか。


 そう思った。


 けれど。


 スケッチブックの間から、


 何かが滑り落ちる。


 小さな切り抜き記事。


 古い雑誌のページ。


 色褪せた紙。



 そこには、


 凛の丸い字でこう書かれていた。


 いつか行きたい


 蓮の呼吸が止まる。



 記事には、


 古い宿の紹介が載っていた。


 桜の季節が美しい宿。


 心が少し軽くなる場所。


 その名前が。


 夜想館。



 凛は知っていたのだ。


 行きたがっていたのだ。


 自分が知らなかっただけで。



 蓮は椅子に座ったまま動けない。


 胸が苦しい。


 悔しい。


 悲しい。


 そして。


 少しだけ思った。


 もし。


 もし代わりに行ったら。


 何かが分かるのだろうか。


 凛が見たかった景色を、


 自分が見たら。



 窓の外で風が吹く。


 桜の花びらが舞う。


 春の嵐の前触れのように。


 止まっていた時間を揺らすように。


 そして数日後。


 高瀬蓮は、


 妹のスケッチブックを抱えて夜想館の扉を叩くことになる。


 知らずに。


 その旅が、


 自分の涙と向き合う旅になることを。


 妹との最後の約束に、


 もう一度出会う旅になることを。

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