春嵐 ― 高瀬蓮
春が嫌いだった。
昔は好きだったはずなのに。
いつからだろう。
桜を見るのが苦しくなったのは。
◇
高瀬蓮、十七歳。
高校二年生。
教室の窓から見える桜を、
今日も見ないふりをしていた。
◇
「蓮ー」
友人が呼ぶ。
「帰ろうぜ」
「先帰って」
「またかよ」
友人は困った顔をする。
最近ずっとこうだった。
誘われても断る。
部活も辞めた。
休日も出かけない。
笑うことも減った。
周りは気を遣ってくれる。
それが余計につらかった。
◇
家に帰る。
静かな家だった。
母は仕事。
父も帰りが遅い。
そして。
もう一人いるはずの家族は、
いない。
◇
妹の凛。
十四歳だった。
去年の春。
病気で亡くなった。
◇
凛はよく笑う子だった。
体が弱かったくせに、
いつも誰かを励ましていた。
自分が苦しい時ですら。
家族を心配していた。
そんな妹だった。
◇
蓮は妹の部屋の前で立ち止まる。
今もそのままだ。
机も。
本棚も。
ぬいぐるみも。
何も変わっていない。
変えられない。
誰も。
◇
部屋へ入る。
窓際の机。
そこに一冊のスケッチブックが置かれている。
何度も開いた。
何度も閉じた。
それでも手放せない。
凛が最後まで描いていたものだから。
◇
ぱらり。
ページをめくる。
花。
猫。
空。
家族。
どれも柔らかな絵だった。
見ているだけで、
凛の声が聞こえてきそうになる。
◇
そして最後のページ。
桜の絵。
少し歪んでいる。
入院中に描いたからだろう。
線が震えている。
それでも。
優しい桜だった。
◇
その横に書かれた文字。
お兄ちゃん
春になったら
一緒に桜を見に行こうね
蓮は目を閉じる。
見られなかった。
結局。
その春は来なかった。
◇
「ごめんな」
誰もいない部屋で呟く。
「約束守れなくて」
何度も言った言葉だった。
もう届かない相手へ。
何度も。
何度も。
◇
その夜。
夢を見る。
桜吹雪。
石畳。
古い洋館。
見たことのない場所。
けれど。
不思議と懐かしい。
◇
夢の中で。
誰かが言った。
「お待ちしております」
穏やかな声。
知らない声。
それなのに。
胸の奥が痛くなる。
◇
目が覚める。
朝だった。
枕元に、
一枚の紙が落ちている。
不思議だった。
昨夜まではなかったはずなのに。
◇
拾い上げる。
古い紙片。
そこには住所が書かれていた。
見知らぬ場所。
そして下に小さな文字。
夜想館
蓮は息を呑む。
昨夜の夢に出てきた名前だった。
◇
偶然だろうか。
そう思った。
けれど。
スケッチブックの間から、
何かが滑り落ちる。
小さな切り抜き記事。
古い雑誌のページ。
色褪せた紙。
◇
そこには、
凛の丸い字でこう書かれていた。
いつか行きたい
蓮の呼吸が止まる。
◇
記事には、
古い宿の紹介が載っていた。
桜の季節が美しい宿。
心が少し軽くなる場所。
その名前が。
夜想館。
◇
凛は知っていたのだ。
行きたがっていたのだ。
自分が知らなかっただけで。
◇
蓮は椅子に座ったまま動けない。
胸が苦しい。
悔しい。
悲しい。
そして。
少しだけ思った。
もし。
もし代わりに行ったら。
何かが分かるのだろうか。
凛が見たかった景色を、
自分が見たら。
◇
窓の外で風が吹く。
桜の花びらが舞う。
春の嵐の前触れのように。
止まっていた時間を揺らすように。
そして数日後。
高瀬蓮は、
妹のスケッチブックを抱えて夜想館の扉を叩くことになる。
知らずに。
その旅が、
自分の涙と向き合う旅になることを。
妹との最後の約束に、
もう一度出会う旅になることを。




