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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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散らない桜

その夜。


 夜想館には静かな雨が降っていた。


 春の雨だった。


 強くはない。


 けれど。


 どこか寂しさを運んでくる雨。



 三浦美月が帰った後。


 館は再び静寂に包まれていた。


 暖炉の火も小さい。


 時計の針だけが静かに進んでいる。


 朔弥は書斎にいた。


 いつものように。


 ひとりで。



 机の上には、


 『春を待つ人たち』。


 かつて題名のなかった本。


 今では少しずつ頁が埋まり始めている。


 百年間の沈黙を取り戻すように。



 朔弥は今日のことを思い出していた。


 三浦美月。


 夫を失った女性。


 それでも生きようとしていた人。


 涙を流しながら。


 前を向こうとしていた人。



 人は不思議だ。


 失ったからこそ、


 大切だったことを知る。


 離れたからこそ、


 消えない想いを抱く。


 そして。


 それでも生きていく。



 その時。


 ぱらり。


 本の頁がめくれた。


 風はない。


 窓も閉まっている。


 けれど。


 確かに頁が動いた。



 白い頁に、


 新しい文字が浮かび始める。


 ゆっくりと。


 まるで誰かが書いているように。


 『忘れないで』


 朔弥は静かに見つめる。


 けれど。


 文字はそこで終わらなかった。


 続きが現れる。


 『忘れないで』


 『でも』


 さらに。


 『生きてください』


 朔弥の呼吸が止まる。



 その言葉を知っていた。


 いや。


 正確には。


 似た言葉を知っていた。



 百年前。


 病床の咲希はよく言っていた。


『泣いてばかりは駄目ですよ』


『春が来たらお花見しましょう』


『また来年も』


 未来を口にする人だった。


 自分の命が長くないと知りながら。


 それでも。


 誰かの未来を願う人だった。



 朔弥は本へ手を伸ばす。


 指先が震える。


 なぜだろう。


 最近になって。


 客人たちの物語が、


 咲希の言葉と重なって見える。


 偶然とは思えないほど。



 佐伯隆一。


 相川栞。


 三浦美月。


 皆。


 何かを失っていた。


 何かを抱えていた。


 そして。


 少しだけ前へ進んで帰っていった。



 まるで。


 咲希がそう望んでいるように。


 まるで。


 夜想館そのものが、


 人の心を春へ送り出しているように。



 雨音が響く。


 その音の向こうで、


 ふと懐かしい声が聞こえた気がした。


『朔弥さん』


 優しい声。


 忘れるはずのない声。


 咲希だった。


 もちろん幻だ。


 分かっている。


 分かっているのに。


 胸が痛む。



「あなたは」


 朔弥は誰にともなく呟く。


「何を伝えたいのですか」


 返事はない。


 ただ。


 本の頁に新しい文字が現れた。


 短い言葉。


 とても短い言葉。


 『もう少しです』


 朔弥は目を見開く。


 何が。


 何がもう少しなのか。


 分からない。


 けれど。


 胸の奥がざわつく。



 その時だった。


 書棚の上に置かれた古い写真立てが、


 かすかに揺れた。


 飾られているのは一枚の写真。


 若い恒星。


 若い咲希。


 そして。


 少し照れくさそうに立つ朔弥。


 三人が笑っている。


 百年前の春。


 桜の木の下で。



 朔弥は写真を見つめた。


 長い間。


 言葉もなく。


 ただ。


 見つめ続けた。



 その頃。


 遠い町。


 一人の少年が机に向かっていた。


 高校二年生。


 高瀬蓮。


 机の上には古びたスケッチブック。


 そして。


 押し花になった桜。


 妹の遺品。



 蓮は最後のページを開く。


 何度も見たページ。


 見飽きるほど見たページ。


 それでも閉じられないページ。


 そこには拙い文字で、


 こう書かれていた。


 お兄ちゃん


 春になったら


 一緒に桜を見に行こうね


 もう叶わない約束。


 だからこそ。


 忘れられない約束。



 その夜。


 蓮は初めて夢を見る。


 桜が舞う古い館の夢を。


 まだ見たこともない、


 夜想館の夢を。


 そして。


 止まっていた時間が、


 再び動き始める。

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