散らない桜
その夜。
夜想館には静かな雨が降っていた。
春の雨だった。
強くはない。
けれど。
どこか寂しさを運んでくる雨。
◇
三浦美月が帰った後。
館は再び静寂に包まれていた。
暖炉の火も小さい。
時計の針だけが静かに進んでいる。
朔弥は書斎にいた。
いつものように。
ひとりで。
◇
机の上には、
『春を待つ人たち』。
かつて題名のなかった本。
今では少しずつ頁が埋まり始めている。
百年間の沈黙を取り戻すように。
◇
朔弥は今日のことを思い出していた。
三浦美月。
夫を失った女性。
それでも生きようとしていた人。
涙を流しながら。
前を向こうとしていた人。
◇
人は不思議だ。
失ったからこそ、
大切だったことを知る。
離れたからこそ、
消えない想いを抱く。
そして。
それでも生きていく。
◇
その時。
ぱらり。
本の頁がめくれた。
風はない。
窓も閉まっている。
けれど。
確かに頁が動いた。
◇
白い頁に、
新しい文字が浮かび始める。
ゆっくりと。
まるで誰かが書いているように。
『忘れないで』
朔弥は静かに見つめる。
けれど。
文字はそこで終わらなかった。
続きが現れる。
『忘れないで』
『でも』
さらに。
『生きてください』
朔弥の呼吸が止まる。
◇
その言葉を知っていた。
いや。
正確には。
似た言葉を知っていた。
◇
百年前。
病床の咲希はよく言っていた。
『泣いてばかりは駄目ですよ』
『春が来たらお花見しましょう』
『また来年も』
未来を口にする人だった。
自分の命が長くないと知りながら。
それでも。
誰かの未来を願う人だった。
◇
朔弥は本へ手を伸ばす。
指先が震える。
なぜだろう。
最近になって。
客人たちの物語が、
咲希の言葉と重なって見える。
偶然とは思えないほど。
◇
佐伯隆一。
相川栞。
三浦美月。
皆。
何かを失っていた。
何かを抱えていた。
そして。
少しだけ前へ進んで帰っていった。
◇
まるで。
咲希がそう望んでいるように。
まるで。
夜想館そのものが、
人の心を春へ送り出しているように。
◇
雨音が響く。
その音の向こうで、
ふと懐かしい声が聞こえた気がした。
『朔弥さん』
優しい声。
忘れるはずのない声。
咲希だった。
もちろん幻だ。
分かっている。
分かっているのに。
胸が痛む。
◇
「あなたは」
朔弥は誰にともなく呟く。
「何を伝えたいのですか」
返事はない。
ただ。
本の頁に新しい文字が現れた。
短い言葉。
とても短い言葉。
『もう少しです』
朔弥は目を見開く。
何が。
何がもう少しなのか。
分からない。
けれど。
胸の奥がざわつく。
◇
その時だった。
書棚の上に置かれた古い写真立てが、
かすかに揺れた。
飾られているのは一枚の写真。
若い恒星。
若い咲希。
そして。
少し照れくさそうに立つ朔弥。
三人が笑っている。
百年前の春。
桜の木の下で。
◇
朔弥は写真を見つめた。
長い間。
言葉もなく。
ただ。
見つめ続けた。
◇
その頃。
遠い町。
一人の少年が机に向かっていた。
高校二年生。
高瀬蓮。
机の上には古びたスケッチブック。
そして。
押し花になった桜。
妹の遺品。
◇
蓮は最後のページを開く。
何度も見たページ。
見飽きるほど見たページ。
それでも閉じられないページ。
そこには拙い文字で、
こう書かれていた。
お兄ちゃん
春になったら
一緒に桜を見に行こうね
もう叶わない約束。
だからこそ。
忘れられない約束。
◇
その夜。
蓮は初めて夢を見る。
桜が舞う古い館の夢を。
まだ見たこともない、
夜想館の夢を。
そして。
止まっていた時間が、
再び動き始める。




