花曇り ― 三浦美月④
「おかえり」
打ち込んだ文字を、
美月はしばらく見つめていた。
送れないメッセージ。
届かない言葉。
それでも。
胸の奥に引っかかっていたものが、
少しだけほどけた気がした。
◇
朝食の時間。
食堂には柔らかな陽射しが差し込んでいる。
窓の外では、
庭の桜の蕾が昨日より膨らんで見えた。
春は確実に近づいている。
誰かを待つように。
◇
美月は席につく。
朔弥が珈琲を置いた。
「よく眠れましたか」
いつもの穏やかな声。
美月は少し迷い、
そして頷いた。
「夢を見ました」
朔弥は何も聞かない。
けれど。
聞いてくれている気がした。
だから美月は話した。
陽介のことを。
夢の中の再会を。
最後の言葉を。
「ちゃんと生きて」
という言葉を。
◇
話し終える頃には、
また涙が出ていた。
けれど。
昨夜の涙とは違う。
苦しさだけの涙ではなかった。
寂しさもある。
悲しさもある。
それでも。
どこか温かかった。
◇
「忘れなくていい」
美月はぽつりと言う。
「そう言ってくれたんです」
朔弥は静かに目を伏せた。
その言葉は。
まるで遠い誰かの願いにも聞こえた。
咲希の。
恒星の。
百年前の春の。
そんな気がした。
◇
「人は」
朔弥が静かに口を開く。
「忘れるのではなく」
少し考える。
言葉を選ぶように。
「抱えて生きていくのかもしれません」
美月は顔を上げた。
朔弥の瞳は、
どこか遠くを見ていた。
きっと。
自分自身へ言っている言葉でもあるのだろう。
◇
朝食の後。
美月は庭へ出た。
桜の木の前に立つ。
風が吹く。
まだ花はない。
けれど。
枝先には春がいた。
もうすぐ咲く。
きっと。
陽介が見られなかった今年の春も。
自分は見るのだ。
その先の春も。
またその先も。
◇
ふと。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。
友人からのメッセージだった。
「今度みんなで会わない?」
以前なら。
断っていた。
人と会う気力がなかった。
笑える気がしなかった。
でも。
今日は違った。
美月はしばらく考え、
そして返信を打つ。
「うん」
たった一文字。
それだけだった。
けれど。
その一文字は、
未来へ踏み出した小さな一歩だった。
◇
昼前。
帰る時間が来る。
玄関には朔弥と黒猫。
いつもの見送り。
けれど。
美月には少し特別に感じられた。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
朔弥も静かに会釈した。
「どうかお元気で」
その言葉に、
美月は少し笑う。
「はい」
そして続けた。
「ちゃんと生きます」
涙が出そうになった。
でも。
今度は泣かなかった。
陽介との約束だから。
◇
美月は歩き出す。
春の光の中へ。
失った人を忘れずに。
けれど立ち止まらずに。
前へ。
少しずつ。
ゆっくりと。
◇
その背中が見えなくなる頃。
書斎では、
『春を待つ人たち』が静かに開いていた。
白い頁に新しい文字が浮かぶ。
短い言葉。
けれど。
優しくて、
少し切ない言葉。
『思い出は、足枷ではありません』
朔弥はその文字を見つめる。
百年。
抱え続けた記憶。
離せなかった後悔。
それらは本当に足枷だったのだろうか。
それとも。
生きてきた証だったのだろうか。
◇
暖炉の火が揺れる。
春風が窓を鳴らす。
そして。
遠く離れた町で、
一人の少年が古いスケッチブックを抱えていた。
ページの間には、
色褪せた桜の押し花。
もう会えない妹の宝物。
彼はまだ知らない。
そのスケッチブックが、
夜想館へ導く招待状になることを。
泣きたくなるほど優しい約束の続きを、
見つけることになることを。




