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夜想館  作者: 灯野 しおん
第八夜

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花曇り ― 三浦美月④

「おかえり」


 打ち込んだ文字を、


 美月はしばらく見つめていた。


 送れないメッセージ。


 届かない言葉。


 それでも。


 胸の奥に引っかかっていたものが、


 少しだけほどけた気がした。



 朝食の時間。


 食堂には柔らかな陽射しが差し込んでいる。


 窓の外では、


 庭の桜の蕾が昨日より膨らんで見えた。


 春は確実に近づいている。


 誰かを待つように。



 美月は席につく。


 朔弥が珈琲を置いた。


「よく眠れましたか」


 いつもの穏やかな声。


 美月は少し迷い、


 そして頷いた。


「夢を見ました」


 朔弥は何も聞かない。


 けれど。


 聞いてくれている気がした。


 だから美月は話した。


 陽介のことを。


 夢の中の再会を。


 最後の言葉を。


 「ちゃんと生きて」


 という言葉を。



 話し終える頃には、


 また涙が出ていた。


 けれど。


 昨夜の涙とは違う。


 苦しさだけの涙ではなかった。


 寂しさもある。


 悲しさもある。


 それでも。


 どこか温かかった。



「忘れなくていい」


 美月はぽつりと言う。


「そう言ってくれたんです」


 朔弥は静かに目を伏せた。


 その言葉は。


 まるで遠い誰かの願いにも聞こえた。


 咲希の。


 恒星の。


 百年前の春の。


 そんな気がした。



「人は」


 朔弥が静かに口を開く。


「忘れるのではなく」


 少し考える。


 言葉を選ぶように。


「抱えて生きていくのかもしれません」


 美月は顔を上げた。


 朔弥の瞳は、


 どこか遠くを見ていた。


 きっと。


 自分自身へ言っている言葉でもあるのだろう。



 朝食の後。


 美月は庭へ出た。


 桜の木の前に立つ。


 風が吹く。


 まだ花はない。


 けれど。


 枝先には春がいた。


 もうすぐ咲く。


 きっと。


 陽介が見られなかった今年の春も。


 自分は見るのだ。


 その先の春も。


 またその先も。



 ふと。


 ポケットの中のスマートフォンが震えた。


 友人からのメッセージだった。


「今度みんなで会わない?」


 以前なら。


 断っていた。


 人と会う気力がなかった。


 笑える気がしなかった。


 でも。


 今日は違った。


 美月はしばらく考え、


 そして返信を打つ。


「うん」


 たった一文字。


 それだけだった。


 けれど。


 その一文字は、


 未来へ踏み出した小さな一歩だった。



 昼前。


 帰る時間が来る。


 玄関には朔弥と黒猫。


 いつもの見送り。


 けれど。


 美月には少し特別に感じられた。


「ありがとうございました」


 深く頭を下げる。


 朔弥も静かに会釈した。


「どうかお元気で」


 その言葉に、


 美月は少し笑う。


「はい」


 そして続けた。


「ちゃんと生きます」


 涙が出そうになった。


 でも。


 今度は泣かなかった。


 陽介との約束だから。



 美月は歩き出す。


 春の光の中へ。


 失った人を忘れずに。


 けれど立ち止まらずに。


 前へ。


 少しずつ。


 ゆっくりと。



 その背中が見えなくなる頃。


 書斎では、


 『春を待つ人たち』が静かに開いていた。


 白い頁に新しい文字が浮かぶ。


 短い言葉。


 けれど。


 優しくて、


 少し切ない言葉。


 『思い出は、足枷ではありません』


 朔弥はその文字を見つめる。


 百年。


 抱え続けた記憶。


 離せなかった後悔。


 それらは本当に足枷だったのだろうか。


 それとも。


 生きてきた証だったのだろうか。



 暖炉の火が揺れる。


 春風が窓を鳴らす。


 そして。


 遠く離れた町で、


 一人の少年が古いスケッチブックを抱えていた。


 ページの間には、


 色褪せた桜の押し花。


 もう会えない妹の宝物。


 彼はまだ知らない。


 そのスケッチブックが、


 夜想館へ導く招待状になることを。


 泣きたくなるほど優しい約束の続きを、


 見つけることになることを。

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