花曇り ― 三浦美月③
夜は静かだった。
美月は客室のベッドに横になっていた。
けれど眠れない。
目を閉じても、
陽介のことばかり考えてしまう。
最後の朝。
最後の会話。
最後の笑顔。
思い出そうとしなくても、
勝手に浮かんでくる。
◇
枕元のスマートフォンが光る。
無意識に手を伸ばす。
開くのはいつも同じ画面。
陽介とのトーク履歴。
一年前から止まったままの会話。
美月
「卵も切れてるよ」
陽介
「了解」
陽介
「帰りに牛乳買う」
最後の言葉。
何百回読んだか分からない。
返事のない会話。
届かないメッセージ。
それでも消せない。
消したら。
本当に終わってしまう気がするから。
◇
いつの間にか眠りに落ちていた。
夢だった。
けれど。
あまりにも鮮明だった。
◇
夕暮れ。
見慣れたアパート。
見慣れた玄関。
見慣れたリビング。
カレーの匂いがする。
テレビがついている。
時計の音。
冷蔵庫の音。
どれも懐かしい。
どれも失ったもの。
◇
そして。
玄関の扉が開く。
がちゃり。
その音に、
美月の心臓が止まりそうになる。
「ただいま」
陽介だった。
スーツ姿。
少し疲れた顔。
いつもと同じ笑顔。
事故の日の朝と何も変わらない。
◇
「……ようすけ?」
声が震える。
陽介は笑った。
「どうした」
「そんな顔して」
当たり前のように靴を脱ぐ。
鞄を置く。
ネクタイを緩める。
その何気ない仕草が、
涙が出るほど愛しかった。
◇
美月は走った。
夢だと分かっていた。
それでも。
抱きしめたかった。
もう一度だけ。
触れたかった。
けれど。
あと一歩のところで足が止まる。
怖かった。
抱きしめた瞬間、
消えてしまう気がして。
◇
陽介は困ったように笑う。
「美月」
優しい声。
大好きだった声。
「頑張ったな」
その一言で。
美月は崩れた。
◇
「頑張ってない!」
涙が溢れる。
「全然頑張ってない!」
「毎日泣いてる!」
「まだ駄目なの!」
「忘れられない!」
「前なんて向けない!」
「会いたい!」
叫びだった。
一年間。
誰にも言えなかった本音。
心の奥へ押し込めていた痛み。
それが全部溢れ出す。
「会いたい……」
「会いたいよ……」
「帰ってきてよ……」
子供みたいに泣いた。
声を上げて。
嗚咽しながら。
◇
陽介は何も言わなかった。
ただ。
静かに聞いていた。
全部。
最後まで。
◇
やがて。
美月が泣き疲れた頃。
陽介は少しだけ笑った。
昔と同じように。
「知ってる」
その言葉に。
美月は顔を上げる。
「全部知ってる」
優しい声だった。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
ただ。
受け止める声。
◇
「ごめん」
陽介が言う。
「約束破ったな」
美月は首を振る。
違う。
そんなこと言わないでほしい。
謝るのは自分の方だ。
もっと笑えばよかった。
もっと話せばよかった。
もっと――
「違う」
陽介は首を振った。
まるで心を読んだように。
◇
「美月」
春風が吹く。
窓の外には桜。
夢なのに。
花びらが舞っている。
「俺な」
陽介は少し照れたように笑った。
「幸せだった」
その言葉は。
刃のように優しかった。
優しすぎて苦しい。
「だから」
陽介は続ける。
「俺のために止まらないで」
美月の涙が溢れる。
止まらない。
止められない。
◇
「忘れなくていい」
陽介が言う。
「忘れる必要なんかない」
美月が息を呑む。
ずっと欲しかった言葉だった。
「でもな」
陽介は笑う。
昔と同じ顔で。
大好きだった顔で。
「ちゃんと生きて」
たったそれだけ。
たったそれだけだった。
けれど。
その一言が。
一年間凍りついていた心を溶かした。
◇
景色が薄れていく。
夢が終わる。
時間が来た。
「待って」
美月は手を伸ばす。
「まだ」
「まだ行かないで」
子供みたいな願い。
叶わない願い。
◇
陽介は最後に笑った。
穏やかに。
幸せそうに。
「行ってらっしゃい」
それは。
毎朝、
美月が送り出していた言葉だった。
今度は逆だった。
送り出されるのは自分。
生きるために。
未来へ向かうために。
◇
目が覚める。
朝だった。
窓の外は明るい。
頬は涙で濡れている。
胸が苦しい。
けれど。
昨日までとは違う苦しさだった。
失った痛みではなく。
抱えて生きていく痛み。
◇
スマートフォンを開く。
最後のメッセージ。
「帰りに牛乳買う」
美月は静かに微笑む。
そして初めて。
一年ぶりに。
その画面へ返事を打った。
「おかえり」
送信はしない。
できない。
それでもよかった。
ようやく言えたから。
ずっと言えなかった言葉を。
涙を流しながら。
笑いながら。
ようやく。




