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夜想館  作者: 灯野 しおん
第八夜

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花曇り ― 三浦美月③

夜は静かだった。


 美月は客室のベッドに横になっていた。


 けれど眠れない。


 目を閉じても、


 陽介のことばかり考えてしまう。


 最後の朝。


 最後の会話。


 最後の笑顔。


 思い出そうとしなくても、


 勝手に浮かんでくる。



 枕元のスマートフォンが光る。


 無意識に手を伸ばす。


 開くのはいつも同じ画面。


 陽介とのトーク履歴。


 一年前から止まったままの会話。


 美月

 「卵も切れてるよ」


 陽介

 「了解」


 陽介

 「帰りに牛乳買う」


 最後の言葉。


 何百回読んだか分からない。


 返事のない会話。


 届かないメッセージ。


 それでも消せない。


 消したら。


 本当に終わってしまう気がするから。



 いつの間にか眠りに落ちていた。


 夢だった。


 けれど。


 あまりにも鮮明だった。



 夕暮れ。


 見慣れたアパート。


 見慣れた玄関。


 見慣れたリビング。


 カレーの匂いがする。


 テレビがついている。


 時計の音。


 冷蔵庫の音。


 どれも懐かしい。


 どれも失ったもの。



 そして。


 玄関の扉が開く。


 がちゃり。


 その音に、


 美月の心臓が止まりそうになる。


「ただいま」


 陽介だった。


 スーツ姿。


 少し疲れた顔。


 いつもと同じ笑顔。


 事故の日の朝と何も変わらない。



「……ようすけ?」


 声が震える。


 陽介は笑った。


「どうした」


「そんな顔して」


 当たり前のように靴を脱ぐ。


 鞄を置く。


 ネクタイを緩める。


 その何気ない仕草が、


 涙が出るほど愛しかった。



 美月は走った。


 夢だと分かっていた。


 それでも。


 抱きしめたかった。


 もう一度だけ。


 触れたかった。


 けれど。


 あと一歩のところで足が止まる。


 怖かった。


 抱きしめた瞬間、


 消えてしまう気がして。



 陽介は困ったように笑う。


「美月」


 優しい声。


 大好きだった声。


「頑張ったな」


 その一言で。


 美月は崩れた。



「頑張ってない!」


 涙が溢れる。


「全然頑張ってない!」


「毎日泣いてる!」


「まだ駄目なの!」


「忘れられない!」


「前なんて向けない!」


「会いたい!」


 叫びだった。


 一年間。


 誰にも言えなかった本音。


 心の奥へ押し込めていた痛み。


 それが全部溢れ出す。


「会いたい……」


「会いたいよ……」


「帰ってきてよ……」


 子供みたいに泣いた。


 声を上げて。


 嗚咽しながら。



 陽介は何も言わなかった。


 ただ。


 静かに聞いていた。


 全部。


 最後まで。



 やがて。


 美月が泣き疲れた頃。


 陽介は少しだけ笑った。


 昔と同じように。


「知ってる」


 その言葉に。


 美月は顔を上げる。


「全部知ってる」


 優しい声だった。


 責めるでもなく。


 慰めるでもなく。


 ただ。


 受け止める声。



「ごめん」


 陽介が言う。


「約束破ったな」


 美月は首を振る。


 違う。


 そんなこと言わないでほしい。


 謝るのは自分の方だ。


 もっと笑えばよかった。


 もっと話せばよかった。


 もっと――


「違う」


 陽介は首を振った。


 まるで心を読んだように。



「美月」


 春風が吹く。


 窓の外には桜。


 夢なのに。


 花びらが舞っている。


「俺な」


 陽介は少し照れたように笑った。


「幸せだった」


 その言葉は。


 刃のように優しかった。


 優しすぎて苦しい。


「だから」


 陽介は続ける。


「俺のために止まらないで」


 美月の涙が溢れる。


 止まらない。


 止められない。



「忘れなくていい」


 陽介が言う。


「忘れる必要なんかない」


 美月が息を呑む。


 ずっと欲しかった言葉だった。


「でもな」


 陽介は笑う。


 昔と同じ顔で。


 大好きだった顔で。


「ちゃんと生きて」


 たったそれだけ。


 たったそれだけだった。


 けれど。


 その一言が。


 一年間凍りついていた心を溶かした。



 景色が薄れていく。


 夢が終わる。


 時間が来た。


「待って」


 美月は手を伸ばす。


「まだ」


「まだ行かないで」


 子供みたいな願い。


 叶わない願い。



 陽介は最後に笑った。


 穏やかに。


 幸せそうに。


「行ってらっしゃい」


 それは。


 毎朝、


 美月が送り出していた言葉だった。


 今度は逆だった。


 送り出されるのは自分。


 生きるために。


 未来へ向かうために。



 目が覚める。


 朝だった。


 窓の外は明るい。


 頬は涙で濡れている。


 胸が苦しい。


 けれど。


 昨日までとは違う苦しさだった。


 失った痛みではなく。


 抱えて生きていく痛み。



 スマートフォンを開く。


 最後のメッセージ。


「帰りに牛乳買う」


 美月は静かに微笑む。


 そして初めて。


 一年ぶりに。


 その画面へ返事を打った。


「おかえり」


 送信はしない。


 できない。


 それでもよかった。


 ようやく言えたから。


 ずっと言えなかった言葉を。


 涙を流しながら。


 笑いながら。


 ようやく。

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