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夜想館  作者: 灯野 しおん
第八夜

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花曇り ― 三浦美月②

 夕暮れ。


 どうやってたどり着いたのかはわからない…


 猫の声を聞いた気がしたが、


 美月は気づいたら洋館の前に立っていた。


 扉には


 『夜想館』


 の文字。


 「ここは……」」


 美月は扉を開いた。

 

 からん。


 小さなベルの音。


「ようこそ」


 静かな声。


 美月は顔を上げる。


 黒いベストの青年。


 穏やかな微笑み。


 不思議な人だと思った。


 初めて会うのに、


 なぜか懐かしい。



 宿帳に名前を書く。


 三浦 美月


 インクが宿帳に染み込んでいく。


 その時。


 書斎の奥で、


 『春を待つ人たち』の頁が微かに揺れた。


 誰にも気づかれずに。



 客室へ案内される途中。


 美月は窓の外を見た。


 庭の桜。


 まだ蕾だった。


 もうすぐ咲く。


 あと少しで。


 その姿が、


 なぜか涙が出るほど寂しかった。



 夕食は何を食べたのか覚えていない。


 ただ、懐かしいような


 温かい気持ちだけが残った。


 夕食の後。


 ラウンジには他に誰もいなかった。


 暖炉の火だけが揺れている。


 美月は一人で座っていた。


 珈琲は冷めていた。


 気づかないまま。


 ずっと同じ場所を見つめていた。


「眠れませんか」


 朔弥だった。


 美月は苦笑する。


「少し」


「考え事を」


「されていたようですね」


 優しい声だった。


 無理に聞き出そうとしない声。


 だからだろうか。


 美月はぽつりと呟いた。


「忘れたくないんです」



 朔弥は何も言わない。


 ただ待っている。


 美月は続ける。


「でも」


「このままじゃ駄目な気もするんです」


 指先が震える。


「友達は言うんです」


「もう一年だよって」


「前を向いていいんだよって」


 暖炉の火が揺れる。


「でも」


 声が小さくなる。


「私が前を向いたら」


「陽介が本当にいなくなる気がして」



 静かな夜だった。


 泣くつもりはなかった。


 誰にも話すつもりもなかった。


 それなのに。


 堰を切ったように言葉が溢れる。


「服も捨てられません」


「歯ブラシも」


「スマホも解約できません」


「留守番電話も消せません」


「全部そのままなんです」


 涙が落ちる。


 一滴。


 また一滴。


「忘れたら」


「裏切ることになる気がして」


 その言葉に。


 朔弥の瞳がほんの少し揺れた。


 まるで。


 遠い昔に同じ言葉を聞いたことがあるように。



 暖炉の火が静かに燃える。


 春の夜は更けていく。


 そして美月はまだ知らない。


 今夜。


 夢の中で、


 もう二度と会えないと思っていた人と再会することを。


 ずっと言えなかった言葉を、


 聞くことになることを。

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