花曇り ― 三浦美月②
夕暮れ。
どうやってたどり着いたのかはわからない…
猫の声を聞いた気がしたが、
美月は気づいたら洋館の前に立っていた。
扉には
『夜想館』
の文字。
「ここは……」」
美月は扉を開いた。
からん。
小さなベルの音。
「ようこそ」
静かな声。
美月は顔を上げる。
黒いベストの青年。
穏やかな微笑み。
不思議な人だと思った。
初めて会うのに、
なぜか懐かしい。
◇
宿帳に名前を書く。
三浦 美月
インクが宿帳に染み込んでいく。
その時。
書斎の奥で、
『春を待つ人たち』の頁が微かに揺れた。
誰にも気づかれずに。
◇
客室へ案内される途中。
美月は窓の外を見た。
庭の桜。
まだ蕾だった。
もうすぐ咲く。
あと少しで。
その姿が、
なぜか涙が出るほど寂しかった。
◇
夕食は何を食べたのか覚えていない。
ただ、懐かしいような
温かい気持ちだけが残った。
夕食の後。
ラウンジには他に誰もいなかった。
暖炉の火だけが揺れている。
美月は一人で座っていた。
珈琲は冷めていた。
気づかないまま。
ずっと同じ場所を見つめていた。
「眠れませんか」
朔弥だった。
美月は苦笑する。
「少し」
「考え事を」
「されていたようですね」
優しい声だった。
無理に聞き出そうとしない声。
だからだろうか。
美月はぽつりと呟いた。
「忘れたくないんです」
◇
朔弥は何も言わない。
ただ待っている。
美月は続ける。
「でも」
「このままじゃ駄目な気もするんです」
指先が震える。
「友達は言うんです」
「もう一年だよって」
「前を向いていいんだよって」
暖炉の火が揺れる。
「でも」
声が小さくなる。
「私が前を向いたら」
「陽介が本当にいなくなる気がして」
◇
静かな夜だった。
泣くつもりはなかった。
誰にも話すつもりもなかった。
それなのに。
堰を切ったように言葉が溢れる。
「服も捨てられません」
「歯ブラシも」
「スマホも解約できません」
「留守番電話も消せません」
「全部そのままなんです」
涙が落ちる。
一滴。
また一滴。
「忘れたら」
「裏切ることになる気がして」
その言葉に。
朔弥の瞳がほんの少し揺れた。
まるで。
遠い昔に同じ言葉を聞いたことがあるように。
◇
暖炉の火が静かに燃える。
春の夜は更けていく。
そして美月はまだ知らない。
今夜。
夢の中で、
もう二度と会えないと思っていた人と再会することを。
ずっと言えなかった言葉を、
聞くことになることを。




