恒星の日記
夜想館に静かな夜が訪れていた。
相川栞が帰った後。
館はいつもの静けさを取り戻している。
暖炉の火は小さく揺れ、
時計の針だけが時を刻んでいた。
◇
朔弥は書斎にいた。
机の上には一冊の日記。
革表紙。
擦り切れた角。
長い年月を越えてきた本。
恒星の日記だった。
百年前。
確かに彼が書いたもの。
そして今日。
再び朔弥の元へ戻ってきたもの。
◇
指先で表紙をなぞる。
懐かしい感触だった。
恒星は昔から字を書くのが好きだった。
思ったことを残す人だった。
嬉しかったこと。
失敗したこと。
咲希のこと。
花のこと。
未来のこと。
なんでも書いていた。
「相変わらずですね」
思わず苦笑する。
返事はない。
当然だった。
けれど。
少しだけ。
昔に戻った気がした。
◇
日記を開く。
まだ読んでいない頁がある。
最後の方。
病が深刻になった頃の日付。
朔弥はゆっくりと頁をめくった。
そこにあったのは、
意外な内容だった。
三月二十五日。
咲希に叱られた。
薬を飲み忘れたからだ。
病人はあちらなのに。
なぜ私が叱られるのか。
朔弥の口元が緩む。
咲希らしい。
本当に。
あの人らしい。
◇
頁をめくる。
三月二十八日。
桜がもうすぐ咲く。
咲希が楽しみにしている。
だから咲いてほしい。
どうか今年も。
短い文章。
けれど。
その一文だけで伝わる。
恒星がどれほど願っていたか。
どれほど必死だったか。
◇
さらに頁をめくる。
そこで朔弥の手が止まった。
文字が乱れている。
いつもの恒星の字ではない。
震えていた。
焦ったように。
何かに追われるように。
四月七日。
怖い。
たった三文字。
それだけだった。
それだけなのに。
胸を締め付ける。
恒星は弱音を吐かなかった。
人前では。
決して。
だからこそ。
この一言が重かった。
◇
朔弥は目を閉じる。
思い出していた。
あの日の夜を。
咲希の部屋の前。
恒星は笑っていた。
いつも通り。
大丈夫だと言っていた。
けれど。
日記には違うことが書かれていた。
誰にも見せなかった本音が。
◇
その時だった。
ぱらり。
窓は閉まっている。
風もない。
それなのに。
日記の最後の頁がひとりでに開いた。
朔弥は息を呑む。
そこには。
今まで見たことのない文章があった。
まるで隠されていたように。
誰かが読む日を待っていたように。
◇
四月八日 深夜
眠れない。
咲希は眠っている。
とても穏やかな顔だ。
文字を追うたびに、
朔弥の胸が痛む。
もし奇跡があるなら。
どうか咲希を生かしてほしい。
私の命と引き換えでもいい。
静寂。
時計の音だけが響く。
恒星は本気だった。
冗談でも。
比喩でもない。
本気でそう願っていた。
◇
そして。
最後の数行。
朔弥の視界が滲む。
咲希が目を覚ましたら。
桜を見せたい。
来年も。
再来年も。
その先も。
ずっと。
そこで文章は終わっていた。
続きはない。
それが最後だった。
恒星の日記は、
その頁で終わっている。
◇
長い沈黙。
朔弥は本を閉じた。
百年間。
抱え続けてきた後悔。
言葉にならない痛み。
それは消えない。
きっとこれからも。
消えることはない。
けれど。
今なら少しだけ分かる。
恒星は最後まで、
絶望の中にいたわけではなかった。
怖かった。
苦しかった。
それでも。
最後まで未来を願っていた。
最後まで春を信じていた。
◇
書斎の奥で、
『春を待つ人たち』が静かに開く。
白い頁に新しい文字が浮かぶ。
短い言葉。
けれど。
胸を締め付けるほど優しい言葉。
『桜は咲きました』
朔弥は目を閉じる。
春の風が吹いた気がした。
遠い昔。
咲希が見られなかった春。
恒星が願い続けた春。
その春が。
ようやく。
百年越しに届こうとしていた。
そして次に夜想館を訪れる客人は、
愛する人を失ったまま、
時を止めてしまった女性。
三浦美月。
彼女の涙が、
また一つ止まった物語を動かしていく。




