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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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恒星の日記

夜想館に静かな夜が訪れていた。


 相川栞が帰った後。


 館はいつもの静けさを取り戻している。


 暖炉の火は小さく揺れ、


 時計の針だけが時を刻んでいた。



 朔弥は書斎にいた。


 机の上には一冊の日記。


 革表紙。


 擦り切れた角。


 長い年月を越えてきた本。


 恒星の日記だった。


 百年前。


 確かに彼が書いたもの。


 そして今日。


 再び朔弥の元へ戻ってきたもの。



 指先で表紙をなぞる。


 懐かしい感触だった。


 恒星は昔から字を書くのが好きだった。


 思ったことを残す人だった。


 嬉しかったこと。


 失敗したこと。


 咲希のこと。


 花のこと。


 未来のこと。


 なんでも書いていた。


「相変わらずですね」


 思わず苦笑する。


 返事はない。


 当然だった。


 けれど。


 少しだけ。


 昔に戻った気がした。



 日記を開く。


 まだ読んでいない頁がある。


 最後の方。


 病が深刻になった頃の日付。


 朔弥はゆっくりと頁をめくった。


 そこにあったのは、


 意外な内容だった。


 三月二十五日。


 咲希に叱られた。


 薬を飲み忘れたからだ。


 病人はあちらなのに。


 なぜ私が叱られるのか。


 朔弥の口元が緩む。


 咲希らしい。


 本当に。


 あの人らしい。



 頁をめくる。


 三月二十八日。


 桜がもうすぐ咲く。


 咲希が楽しみにしている。


 だから咲いてほしい。


 どうか今年も。


 短い文章。


 けれど。


 その一文だけで伝わる。


 恒星がどれほど願っていたか。


 どれほど必死だったか。



 さらに頁をめくる。


 そこで朔弥の手が止まった。


 文字が乱れている。


 いつもの恒星の字ではない。


 震えていた。


 焦ったように。


 何かに追われるように。


 四月七日。


 怖い。


 たった三文字。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 胸を締め付ける。


 恒星は弱音を吐かなかった。


 人前では。


 決して。


 だからこそ。


 この一言が重かった。



 朔弥は目を閉じる。


 思い出していた。


 あの日の夜を。


 咲希の部屋の前。


 恒星は笑っていた。


 いつも通り。


 大丈夫だと言っていた。


 けれど。


 日記には違うことが書かれていた。


 誰にも見せなかった本音が。



 その時だった。


 ぱらり。


 窓は閉まっている。


 風もない。


 それなのに。


 日記の最後の頁がひとりでに開いた。


 朔弥は息を呑む。


 そこには。


 今まで見たことのない文章があった。


 まるで隠されていたように。


 誰かが読む日を待っていたように。



 四月八日 深夜


 眠れない。


 咲希は眠っている。


 とても穏やかな顔だ。


 文字を追うたびに、


 朔弥の胸が痛む。


 もし奇跡があるなら。


 どうか咲希を生かしてほしい。


 私の命と引き換えでもいい。


 静寂。


 時計の音だけが響く。


 恒星は本気だった。


 冗談でも。


 比喩でもない。


 本気でそう願っていた。



 そして。


 最後の数行。


 朔弥の視界が滲む。


 咲希が目を覚ましたら。


 桜を見せたい。


 来年も。


 再来年も。


 その先も。


 ずっと。


 そこで文章は終わっていた。


 続きはない。


 それが最後だった。


 恒星の日記は、


 その頁で終わっている。



 長い沈黙。


 朔弥は本を閉じた。


 百年間。


 抱え続けてきた後悔。


 言葉にならない痛み。


 それは消えない。


 きっとこれからも。


 消えることはない。


 けれど。


 今なら少しだけ分かる。


 恒星は最後まで、


 絶望の中にいたわけではなかった。


 怖かった。


 苦しかった。


 それでも。


 最後まで未来を願っていた。


 最後まで春を信じていた。



 書斎の奥で、


 『春を待つ人たち』が静かに開く。


 白い頁に新しい文字が浮かぶ。


 短い言葉。


 けれど。


 胸を締め付けるほど優しい言葉。


 『桜は咲きました』


 朔弥は目を閉じる。


 春の風が吹いた気がした。


 遠い昔。


 咲希が見られなかった春。


 恒星が願い続けた春。


 その春が。


 ようやく。


 百年越しに届こうとしていた。


 そして次に夜想館を訪れる客人は、


 愛する人を失ったまま、


 時を止めてしまった女性。


 三浦美月。


 彼女の涙が、


 また一つ止まった物語を動かしていく。

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