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夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

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催花雨 ― 相川栞⑦

 『春を待つ人たち』


 題名のない本に刻まれたその文字を、


 朔弥は長い間見つめていた。


 百年間。


 名前すら持たなかった本。


 誰のものでもなく、


 誰にも開かれなかった本。


 その本が初めて題名を得た。


 それは終わりではなく、


 始まりのように思えた。



 栞もまた本を見つめていた。


 胸の奥が静かに震えている。


 不思議だった。


 この館へ来る前の自分は、


 こんな物語を信じる人間ではなかった。


 夢が過去へ繋がるなんて。


 本が言葉を紡ぐなんて。


 そんなこと。


 あり得ないと思っていた。


 けれど。


 今は違う。


 目の前で起きたことを、


 否定する方が難しかった。



「相川さん」


 朔弥が静かに言う。


「ありがとうございます」


 栞は首を傾げる。


「私は何も」


「いいえ」


 朔弥は少しだけ笑った。


 それは栞が初めて見る表情だった。


 いつもどこか遠くを見ていた人が、


 ほんの少しだけ今を見ている。


「あなたが来てくださらなければ」


 その先は言わなかった。


 けれど。


 十分伝わった。


 百年間止まっていた何かが、


 確かに動き始めているのだと。



 その日の午後。


 雨は完全に上がった。


 庭へ出ると、


 柔らかな春風が吹いている。


 栞は桜の木を見上げた。


 まだ蕾。


 けれど。


 もうすぐ咲く。


 そんな気配があった。


「夢で見た場所だ」


 思わず呟く。


 庭の石畳。


 古いベンチ。


 花壇。


 すべて夢と同じだった。


 まるで記憶をなぞるように。



 その時。


 風が吹いた。


 栞の足元へ、


 一枚の紙が舞い落ちる。


 古い紙だった。


 どこから飛んできたのか分からない。


 拾い上げる。


 そこには小さな文字。


 消えかけた鉛筆書き。


 「桜が咲いたら教えてください」


 たったそれだけ。


 署名もない。


 日付もない。


 けれど。


 栞の胸が締め付けられる。


 その願いは、


 どこか切実だった。


 叶わなかった約束のように。



 夕暮れ。


 栞は帰り支度を始める。


 一泊だけの予定だった。


 日常へ戻る時間が来た。


 古書店。


 積み上がる本。


 変わらない毎日。


 けれど。


 以前と同じ自分ではいられない気がした。



 玄関。


 黒猫が待っている。


 最初に出会った時と同じように。


 静かに。


 穏やかに。


「ありがとう」


 栞が言うと、


 黒猫は目を細めた。


 まるで笑ったように。



 朔弥が扉を開く。


 外には柔らかな光。


 春の匂い。


「行ってらっしゃいませ」


 いつもの言葉。


 けれど。


 今日は少し違う。


 栞はそう感じた。


 その言葉には、


 帰ってくる場所を知っている人の温かさがあった。



 栞は一歩踏み出す。


 そして振り返った。


「朔弥さん」


 朔弥が顔を上げる。


 栞は少し迷った。


 自分でも理由が分からない。


 けれど。


 どうしても伝えたかった。


「きっと」


 春風が吹く。


 桜の蕾が揺れる。


「大丈夫ですよ」


 その言葉に、


 朔弥は目を見開いた。


 それは昔。


 恒星がよく言っていた言葉だった。


 困った時も。


 不安な時も。


 必ず笑って。


 大丈夫だ、と。



 栞は去っていく。


 春の光の中へ。


 自分の人生へ。


 前を向いて。


 歩いていく。


 朔弥はその背中を見送った。


 長い間。


 見えなくなるまで。



 その夜。


 書斎。


 題名のない本――


 いや。


 『春を待つ人たち』


 の頁が静かに開く。


 新しい文字が現れる。


 短い一文。


 けれど。


 今までで最も優しい言葉。


 『もう一人、来ます』


 朔弥は息を呑む。


 誰が。


 何のために。


 分からない。


 けれど。


 その文字からは、


 不思議な温もりが伝わってきた。


 そして遠くで、


 春を呼ぶ風が吹く。


 次の客人を連れてくるように。


 泣きたいほど大切な人を失った、


 一人の女性を連れて。

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