催花雨 ― 相川栞⑦
『春を待つ人たち』
題名のない本に刻まれたその文字を、
朔弥は長い間見つめていた。
百年間。
名前すら持たなかった本。
誰のものでもなく、
誰にも開かれなかった本。
その本が初めて題名を得た。
それは終わりではなく、
始まりのように思えた。
◇
栞もまた本を見つめていた。
胸の奥が静かに震えている。
不思議だった。
この館へ来る前の自分は、
こんな物語を信じる人間ではなかった。
夢が過去へ繋がるなんて。
本が言葉を紡ぐなんて。
そんなこと。
あり得ないと思っていた。
けれど。
今は違う。
目の前で起きたことを、
否定する方が難しかった。
◇
「相川さん」
朔弥が静かに言う。
「ありがとうございます」
栞は首を傾げる。
「私は何も」
「いいえ」
朔弥は少しだけ笑った。
それは栞が初めて見る表情だった。
いつもどこか遠くを見ていた人が、
ほんの少しだけ今を見ている。
「あなたが来てくださらなければ」
その先は言わなかった。
けれど。
十分伝わった。
百年間止まっていた何かが、
確かに動き始めているのだと。
◇
その日の午後。
雨は完全に上がった。
庭へ出ると、
柔らかな春風が吹いている。
栞は桜の木を見上げた。
まだ蕾。
けれど。
もうすぐ咲く。
そんな気配があった。
「夢で見た場所だ」
思わず呟く。
庭の石畳。
古いベンチ。
花壇。
すべて夢と同じだった。
まるで記憶をなぞるように。
◇
その時。
風が吹いた。
栞の足元へ、
一枚の紙が舞い落ちる。
古い紙だった。
どこから飛んできたのか分からない。
拾い上げる。
そこには小さな文字。
消えかけた鉛筆書き。
「桜が咲いたら教えてください」
たったそれだけ。
署名もない。
日付もない。
けれど。
栞の胸が締め付けられる。
その願いは、
どこか切実だった。
叶わなかった約束のように。
◇
夕暮れ。
栞は帰り支度を始める。
一泊だけの予定だった。
日常へ戻る時間が来た。
古書店。
積み上がる本。
変わらない毎日。
けれど。
以前と同じ自分ではいられない気がした。
◇
玄関。
黒猫が待っている。
最初に出会った時と同じように。
静かに。
穏やかに。
「ありがとう」
栞が言うと、
黒猫は目を細めた。
まるで笑ったように。
◇
朔弥が扉を開く。
外には柔らかな光。
春の匂い。
「行ってらっしゃいませ」
いつもの言葉。
けれど。
今日は少し違う。
栞はそう感じた。
その言葉には、
帰ってくる場所を知っている人の温かさがあった。
◇
栞は一歩踏み出す。
そして振り返った。
「朔弥さん」
朔弥が顔を上げる。
栞は少し迷った。
自分でも理由が分からない。
けれど。
どうしても伝えたかった。
「きっと」
春風が吹く。
桜の蕾が揺れる。
「大丈夫ですよ」
その言葉に、
朔弥は目を見開いた。
それは昔。
恒星がよく言っていた言葉だった。
困った時も。
不安な時も。
必ず笑って。
大丈夫だ、と。
◇
栞は去っていく。
春の光の中へ。
自分の人生へ。
前を向いて。
歩いていく。
朔弥はその背中を見送った。
長い間。
見えなくなるまで。
◇
その夜。
書斎。
題名のない本――
いや。
『春を待つ人たち』
の頁が静かに開く。
新しい文字が現れる。
短い一文。
けれど。
今までで最も優しい言葉。
『もう一人、来ます』
朔弥は息を呑む。
誰が。
何のために。
分からない。
けれど。
その文字からは、
不思議な温もりが伝わってきた。
そして遠くで、
春を呼ぶ風が吹く。
次の客人を連れてくるように。
泣きたいほど大切な人を失った、
一人の女性を連れて。




