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夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

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催花雨 ― 相川栞⑥

「おかえりなさい」


 その言葉は、


 いつまでも書斎に残っているようだった。


 誰も口にしていない。


 けれど確かに聞こえた気がした。


 百年の時を越えて。


 優しく。


 温かく。



 栞は書斎の椅子に腰掛けていた。


 少し落ち着いたものの、


 胸の鼓動はまだ速い。


 自分に何が起きているのか分からない。


 なぜ涙が出るのか。


 なぜ咲希の名前が懐かしいのか。


 なぜ夜想館へ導かれたのか。


 何一つ分からない。


 けれど。


 ここへ来るべきだったことだけは分かる。


 そんな気がした。



 題名のない本は開いたままだった。


 白い頁。


 浮かぶ文字。


 そして。


 まだ続きがあるように、


 静かに待っている。


 朔弥は本の前へ立った。


 百年間。


 何度も夢見た瞬間だった。


 もしもう一度、


 あの日の続きが聞けるなら。


 もしもう一度、


 届かなかった言葉があるなら。


 どんな代償を払っても構わないと思った。



 やがて。


 新しい文字が浮かび始める。


 ゆっくりと。


 まるで誰かが思い出しながら書いているように。


 『春の匂いがします。』


 『窓を開けなくても分かります。』


 『桜が咲いているのでしょうね。』


 朔弥の喉が鳴る。


 病床の咲希だった。


 間違いない。


 あの頃の日記。


 あるいは手紙。


 誰にも見せられなかった言葉。



 文字は続く。


 『恒星さんは、また大丈夫だと言いました。』


 『あの人は嘘が下手です。』


 『だから分かってしまいます。』


 栞の胸が締め付けられる。


 読んだこともない。


 会ったこともない。


 それなのに。


 なぜか。


 その気持ちが分かる気がした。


 大切な人が、


 自分を安心させようとしていること。


 その優しさが、


 かえって切ないこと。



 『私はもう長くありません。』


 静寂。


 誰も言葉を発しない。


 発せなかった。


 百年前。


 たった一人の女性が書いた覚悟。


 それがそこにあった。



 文字はさらに続く。


 『でも、不思議と怖くないのです。』


 『怖いのは死ぬことではありません。』


 『残される人たちです。』


 朔弥は目を閉じた。


 恒星。


 そして自分。


 咲希は最後まで、


 自分のことより他人を心配していた。


 あの人らしい。


 本当に。


 あの人らしい。



 文字が揺れる。


 まるで涙に滲むように。


 『だからお願いがあります。』


 朔弥の指先が震える。


 栞も息を止める。


 これは。


 きっと。


 最後の願いだ。



 『恒星さん。』


 『約束を果たせなくても、自分を責めないでください。』


 『私と出会ったことを後悔しないでください。』


 『あなたと過ごした時間は、私の宝物でした。』


 朔弥の視界が滲む。


 恒星が聞きたかった言葉。


 百年間。


 届かなかった言葉。


 それが今。


 ようやく現れている。



 そして。


 最後の最後。


 文字は一度消えかける。


 薄くなる。


 途切れそうになる。


 けれど。


 再び現れた。


 春の光のように。


 優しく。


 温かく。


 『朔弥さん。』


 『あの人を一人にしないでください。』


 朔弥の呼吸が止まる。


 胸の奥に閉じ込めていた百年分の痛みが揺れる。


 『あの人は強い人です。』


 『でも、とても寂しがり屋だから。』


 涙が一筋落ちた。


 朔弥自身も気づかないまま。


 本の頁へ。



 その涙が落ちた瞬間。


 題名のない本が眩く光る。


 白い頁。


 白い表紙。


 そして。


 今まで何もなかった背表紙に、


 一文字ずつ文字が刻まれ始める。


 ゆっくりと。


 百年の眠りから目覚めるように。


 栞と朔弥は息を呑む。


 そこに現れた題名は――


 『春を待つ人たち』


 それは。


 咲希だけの物語ではない。


 恒星だけの物語でもない。


 朔弥の物語であり。


 夜想館の物語であり。


 百年間、


 それぞれの春を待ち続けた人々の物語だった。


 そしてその瞬間。


 どこか遠くで、


 閉ざされていた運命の扉が静かに開いた。


 まだ誰も知らない。


 恒星に本当に何が起きたのかを。


 なぜ約束は果たされなかったのかを。


 その真実が語られる夜が、


 もうすぐ訪れることを。

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