催花雨 ― 相川栞⑥
「おかえりなさい」
その言葉は、
いつまでも書斎に残っているようだった。
誰も口にしていない。
けれど確かに聞こえた気がした。
百年の時を越えて。
優しく。
温かく。
◇
栞は書斎の椅子に腰掛けていた。
少し落ち着いたものの、
胸の鼓動はまだ速い。
自分に何が起きているのか分からない。
なぜ涙が出るのか。
なぜ咲希の名前が懐かしいのか。
なぜ夜想館へ導かれたのか。
何一つ分からない。
けれど。
ここへ来るべきだったことだけは分かる。
そんな気がした。
◇
題名のない本は開いたままだった。
白い頁。
浮かぶ文字。
そして。
まだ続きがあるように、
静かに待っている。
朔弥は本の前へ立った。
百年間。
何度も夢見た瞬間だった。
もしもう一度、
あの日の続きが聞けるなら。
もしもう一度、
届かなかった言葉があるなら。
どんな代償を払っても構わないと思った。
◇
やがて。
新しい文字が浮かび始める。
ゆっくりと。
まるで誰かが思い出しながら書いているように。
『春の匂いがします。』
『窓を開けなくても分かります。』
『桜が咲いているのでしょうね。』
朔弥の喉が鳴る。
病床の咲希だった。
間違いない。
あの頃の日記。
あるいは手紙。
誰にも見せられなかった言葉。
◇
文字は続く。
『恒星さんは、また大丈夫だと言いました。』
『あの人は嘘が下手です。』
『だから分かってしまいます。』
栞の胸が締め付けられる。
読んだこともない。
会ったこともない。
それなのに。
なぜか。
その気持ちが分かる気がした。
大切な人が、
自分を安心させようとしていること。
その優しさが、
かえって切ないこと。
◇
『私はもう長くありません。』
静寂。
誰も言葉を発しない。
発せなかった。
百年前。
たった一人の女性が書いた覚悟。
それがそこにあった。
◇
文字はさらに続く。
『でも、不思議と怖くないのです。』
『怖いのは死ぬことではありません。』
『残される人たちです。』
朔弥は目を閉じた。
恒星。
そして自分。
咲希は最後まで、
自分のことより他人を心配していた。
あの人らしい。
本当に。
あの人らしい。
◇
文字が揺れる。
まるで涙に滲むように。
『だからお願いがあります。』
朔弥の指先が震える。
栞も息を止める。
これは。
きっと。
最後の願いだ。
◇
『恒星さん。』
『約束を果たせなくても、自分を責めないでください。』
『私と出会ったことを後悔しないでください。』
『あなたと過ごした時間は、私の宝物でした。』
朔弥の視界が滲む。
恒星が聞きたかった言葉。
百年間。
届かなかった言葉。
それが今。
ようやく現れている。
◇
そして。
最後の最後。
文字は一度消えかける。
薄くなる。
途切れそうになる。
けれど。
再び現れた。
春の光のように。
優しく。
温かく。
『朔弥さん。』
『あの人を一人にしないでください。』
朔弥の呼吸が止まる。
胸の奥に閉じ込めていた百年分の痛みが揺れる。
『あの人は強い人です。』
『でも、とても寂しがり屋だから。』
涙が一筋落ちた。
朔弥自身も気づかないまま。
本の頁へ。
◇
その涙が落ちた瞬間。
題名のない本が眩く光る。
白い頁。
白い表紙。
そして。
今まで何もなかった背表紙に、
一文字ずつ文字が刻まれ始める。
ゆっくりと。
百年の眠りから目覚めるように。
栞と朔弥は息を呑む。
そこに現れた題名は――
『春を待つ人たち』
それは。
咲希だけの物語ではない。
恒星だけの物語でもない。
朔弥の物語であり。
夜想館の物語であり。
百年間、
それぞれの春を待ち続けた人々の物語だった。
そしてその瞬間。
どこか遠くで、
閉ざされていた運命の扉が静かに開いた。
まだ誰も知らない。
恒星に本当に何が起きたのかを。
なぜ約束は果たされなかったのかを。
その真実が語られる夜が、
もうすぐ訪れることを。




