催花雨 ― 相川栞⑤
「咲希」
その二文字は、
淡い光を帯びながら白い頁の中央に浮かんでいた。
朔弥は動けなかった。
呼吸すら忘れていた。
百年間。
待ち続けた名前だった。
忘れたことはない。
忘れようとしたこともない。
けれど。
こうして再び目にする日が来るとは思わなかった。
◇
栞もまた言葉を失っていた。
自分には見えてはいけないものを見ている。
そんな感覚だった。
それなのに。
恐ろしくはなかった。
むしろ。
懐かしかった。
胸の奥で、
小さな鐘が鳴るような感覚。
遠い昔に置き忘れた何かが、
少しずつ近づいてくる。
◇
その時。
題名のない本の頁が、
ひとりでにめくられた。
ぱらり。
静かな音。
そして。
新しい文字が現れる。
『桜は咲きましたか』
朔弥の瞳が揺れる。
それは。
咲希が最後の春によく口にしていた言葉だった。
病床から見えない庭を気にして。
何度も。
何度も。
尋ねていた。
『桜は咲きましたか?』
恒星はいつも笑って答えた。
『もうすぐだ』
まだ蕾でも。
雨の日でも。
曇り空でも。
必ずそう答えた。
咲希が安心するように。
未来を信じられるように。
◇
朔弥は本へ手を伸ばす。
震える指先。
すると。
今度は自分でも驚くことが起きた。
文字の下に、
新しい言葉が現れた。
まるで問いへの返事のように。
『今年も咲いています』
朔弥が書いたわけではない。
誰も触れていない。
それなのに。
文字は確かに存在していた。
◇
栞は息を呑む。
そのやり取りは、
本の中の会話だった。
百年前から続く会話。
終わったはずの会話。
けれど。
今も続いている。
まるで。
時間そのものが繋がっているかのように。
◇
不意に。
栞の頭の奥で何かが弾けた。
光。
桜吹雪。
春風。
そして声。
『朔弥さん』
知らないはずの声。
けれど懐かしい声。
『来年もお花見しましょうね』
景色が流れ込んでくる。
縁側。
湯飲み。
桜色の着物。
笑顔。
優しい瞳。
栞は思わず額を押さえた。
「っ……」
胸が苦しい。
涙が出そうになる。
理由も分からずに。
◇
「相川さん!」
朔弥が支える。
その瞬間。
栞の口から、
無意識に言葉が零れた。
「ごめんなさい」
朔弥が固まる。
栞自身も驚いていた。
なぜそんな言葉が出たのか分からない。
けれど。
涙だけが溢れてくる。
「待たせて……ごめんなさい……」
震える声。
掠れた声。
それは。
百年前の春に、
伝えられなかった言葉のようだった。
◇
書斎は静まり返る。
黒猫だけが静かに二人を見つめている。
金色の瞳は優しかった。
まるで。
ずっとこの瞬間を待っていたかのように。
◇
題名のない本が、
さらに頁を開く。
そして。
これまでで最も大きな文字が現れる。
白い頁いっぱいに。
春の光のように。
柔らかく。
温かく。
『おかえりなさい』
朔弥の視界が滲む。
百年間。
一度も現れなかった言葉だった。
誰も帰って来なかったから。
帰れなかったから。
けれど今。
その言葉は確かにそこにあった。
まるで夜想館そのものが、
長い旅を終えた誰かを迎えているように。
◇
窓の外で風が吹く。
庭の桜の蕾が揺れる。
春はもう近かった。
百年前に置き去りになった春も。
ようやく。
帰る場所を見つけようとしていた。
そして朔弥はまだ知らない。
栞が見た記憶の続きを。
咲希が最後の日に残した、
本当の願いを。
それが明かされる時。
夜想館の秘密もまた、
終わりへ向かって歩き始めることを。




