表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/68

催花雨 ― 相川栞⑤

 「咲希」


 その二文字は、


 淡い光を帯びながら白い頁の中央に浮かんでいた。


 朔弥は動けなかった。


 呼吸すら忘れていた。


 百年間。


 待ち続けた名前だった。


 忘れたことはない。


 忘れようとしたこともない。


 けれど。


 こうして再び目にする日が来るとは思わなかった。



 栞もまた言葉を失っていた。


 自分には見えてはいけないものを見ている。


 そんな感覚だった。


 それなのに。


 恐ろしくはなかった。


 むしろ。


 懐かしかった。


 胸の奥で、


 小さな鐘が鳴るような感覚。


 遠い昔に置き忘れた何かが、


 少しずつ近づいてくる。



 その時。


 題名のない本の頁が、


 ひとりでにめくられた。


 ぱらり。


 静かな音。


 そして。


 新しい文字が現れる。


 『桜は咲きましたか』


 朔弥の瞳が揺れる。


 それは。


 咲希が最後の春によく口にしていた言葉だった。


 病床から見えない庭を気にして。


 何度も。


 何度も。


 尋ねていた。


『桜は咲きましたか?』


 恒星はいつも笑って答えた。


『もうすぐだ』


 まだ蕾でも。


 雨の日でも。


 曇り空でも。


 必ずそう答えた。


 咲希が安心するように。


 未来を信じられるように。



 朔弥は本へ手を伸ばす。


 震える指先。


 すると。


 今度は自分でも驚くことが起きた。


 文字の下に、


 新しい言葉が現れた。


 まるで問いへの返事のように。


 『今年も咲いています』


 朔弥が書いたわけではない。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 文字は確かに存在していた。



 栞は息を呑む。


 そのやり取りは、


 本の中の会話だった。


 百年前から続く会話。


 終わったはずの会話。


 けれど。


 今も続いている。


 まるで。


 時間そのものが繋がっているかのように。



 不意に。


 栞の頭の奥で何かが弾けた。


 光。


 桜吹雪。


 春風。


 そして声。


『朔弥さん』


 知らないはずの声。


 けれど懐かしい声。


『来年もお花見しましょうね』


 景色が流れ込んでくる。


 縁側。


 湯飲み。


 桜色の着物。


 笑顔。


 優しい瞳。


 栞は思わず額を押さえた。


「っ……」


 胸が苦しい。


 涙が出そうになる。


 理由も分からずに。



「相川さん!」


 朔弥が支える。


 その瞬間。


 栞の口から、


 無意識に言葉が零れた。


「ごめんなさい」


 朔弥が固まる。


 栞自身も驚いていた。


 なぜそんな言葉が出たのか分からない。


 けれど。


 涙だけが溢れてくる。


「待たせて……ごめんなさい……」


 震える声。


 掠れた声。


 それは。


 百年前の春に、


 伝えられなかった言葉のようだった。



 書斎は静まり返る。


 黒猫だけが静かに二人を見つめている。


 金色の瞳は優しかった。


 まるで。


 ずっとこの瞬間を待っていたかのように。



 題名のない本が、


 さらに頁を開く。


 そして。


 これまでで最も大きな文字が現れる。


 白い頁いっぱいに。


 春の光のように。


 柔らかく。


 温かく。


 『おかえりなさい』


 朔弥の視界が滲む。


 百年間。


 一度も現れなかった言葉だった。


 誰も帰って来なかったから。


 帰れなかったから。


 けれど今。


 その言葉は確かにそこにあった。


 まるで夜想館そのものが、


 長い旅を終えた誰かを迎えているように。



 窓の外で風が吹く。


 庭の桜の蕾が揺れる。


 春はもう近かった。


 百年前に置き去りになった春も。


 ようやく。


 帰る場所を見つけようとしていた。


 そして朔弥はまだ知らない。


 栞が見た記憶の続きを。


 咲希が最後の日に残した、


 本当の願いを。


 それが明かされる時。


 夜想館の秘密もまた、


 終わりへ向かって歩き始めることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ