表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/68

催花雨 ― 相川栞④

翌朝。


 雨は上がっていた。


 窓の外には淡い光が広がっている。


 春の朝だった。


 栞は昨夜の夢を思い出しながら目を開く。


 胸の奥がまだ熱かった。


 咲希の笑顔。


 あの言葉。


 「やっと来てくれた」


 どうして。


 どうしてあんなにも懐かしかったのだろう。



 食堂へ降りると、


 朔弥はすでに珈琲を淹れていた。


 いつも通りの穏やかな姿。


 けれど。


 栞には分かった。


 昨夜の朔弥は眠っていない。


 目の奥に、


 長い夜を過ごした痕跡が残っていた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 静かな挨拶。


 だが互いに、


 昨夜とは違うものを抱えている。



 朝食の後。


 栞は意を決して言った。


「夢を見ました」


 朔弥の手が止まる。


「どんな夢ですか」


 栞はゆっくり話し始めた。


 桜の庭。


 若い恒星。


 咲希。


 そして。


 咲希が自分を見て話しかけたこと。


 最後に残した言葉。


 朔弥は黙って聞いていた。


 一度も遮らずに。


 まるで。


 その一言も聞き漏らすまいとするように。



「やっと来てくれた」


 栞がそう語った時。


 朔弥は静かに目を閉じた。


 その言葉を。


 彼は知っていた。


 昔。


 咲希がよく使っていた言葉だった。


 誰かが訪ねてきた時。


 待ち合わせの日。


 約束の日。


 いつも笑いながら言っていた。


『やっと来てくれた』


 その声が、


 まるで昨日のことのように蘇る。



「相川さん」


 朔弥は静かに尋ねた。


「その日記を見せていただけますか」


 栞は頷く。


 革表紙の日記を差し出す。


 朔弥はそっと受け取った。


 まるで壊れ物に触れるように。


 慎重に。


 大切に。



 頁を開く。


 そこには確かに恒星の筆跡があった。


 昔と変わらない字。


 少し癖のある文字。


 懐かしい。


 懐かしすぎて胸が痛い。


 栞は気づく。


 朔弥が頁をめくるたび、


 表情が少しずつ変わっていくことに。


 百年分の時間が剥がれていくように。



 そして。


 日記の終盤。


 最後の数頁へ辿り着く。


 そこから先は、


 栞もまだ読んでいなかった。


 紙が張り付いていたからだ。


 無理に開こうと思わなかった。


 けれど今。


 不思議なことに。


 その頁は自然に開いた。


 まるで。


 読むべき時が来たとでもいうように。



 朔弥は息を呑む。


 そこには。


 見覚えのある日付が書かれていた。


 大正十三年。


 四月八日。


 その日付を見た瞬間。


 朔弥の顔色が変わる。


 忘れられるはずがない。


 その日は。


 すべてが変わった日だった。



 震える指で文字を追う。


 恒星の最後の日記。


 四月八日。


 咲希の容態が思わしくない。


 本人は笑っている。


 だから私も笑う。


 けれど怖い。


 朔弥は目を伏せる。


 恒星は最後まで弱音を見せなかった。


 だからこそ。


 この文章が苦しかった。



 文字は続く。


 もし私が約束を果たせなかったら。


 もし迎えに行けなかったら。


 夜想館を残したい。


 帰って来る場所がなくならないように。


 栞の呼吸が止まる。


 朔弥も動けない。


 その先に書かれていた一文を見て。


 咲希はきっと帰ってくる。


 部屋が静まり返る。


 風もない。


 音もない。


 ただ。


 その一文だけがそこにあった。



 帰ってくる。


 百年前の恒星はそう書いた。


 根拠などない。


 証拠もない。


 それでも信じていた。


 誰よりも。


 強く。



 そして。


 日記の最後の最後。


 余白に小さく書き足された文字があった。


 急いで書いたような。


 震えた文字。


 朔弥へ。


 もし本当に帰ってきたら。


 今度は迷わせるな。


 その瞬間。


 書斎の奥で。


 題名のない本が大きく開いた。


 ばさり、と。


 まるで百年の眠りから目覚めるように。


 そして。


 白い頁の中央に、


 初めて名前が浮かび上がる。


 薄く。


 淡く。


 けれど確かに。


 そこに記された文字は――


 「咲希」


 だった。


 百年間、空白だった物語に。


 ついに名前が刻まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ