催花雨 ― 相川栞④
翌朝。
雨は上がっていた。
窓の外には淡い光が広がっている。
春の朝だった。
栞は昨夜の夢を思い出しながら目を開く。
胸の奥がまだ熱かった。
咲希の笑顔。
あの言葉。
「やっと来てくれた」
どうして。
どうしてあんなにも懐かしかったのだろう。
◇
食堂へ降りると、
朔弥はすでに珈琲を淹れていた。
いつも通りの穏やかな姿。
けれど。
栞には分かった。
昨夜の朔弥は眠っていない。
目の奥に、
長い夜を過ごした痕跡が残っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
静かな挨拶。
だが互いに、
昨夜とは違うものを抱えている。
◇
朝食の後。
栞は意を決して言った。
「夢を見ました」
朔弥の手が止まる。
「どんな夢ですか」
栞はゆっくり話し始めた。
桜の庭。
若い恒星。
咲希。
そして。
咲希が自分を見て話しかけたこと。
最後に残した言葉。
朔弥は黙って聞いていた。
一度も遮らずに。
まるで。
その一言も聞き漏らすまいとするように。
◇
「やっと来てくれた」
栞がそう語った時。
朔弥は静かに目を閉じた。
その言葉を。
彼は知っていた。
昔。
咲希がよく使っていた言葉だった。
誰かが訪ねてきた時。
待ち合わせの日。
約束の日。
いつも笑いながら言っていた。
『やっと来てくれた』
その声が、
まるで昨日のことのように蘇る。
◇
「相川さん」
朔弥は静かに尋ねた。
「その日記を見せていただけますか」
栞は頷く。
革表紙の日記を差し出す。
朔弥はそっと受け取った。
まるで壊れ物に触れるように。
慎重に。
大切に。
◇
頁を開く。
そこには確かに恒星の筆跡があった。
昔と変わらない字。
少し癖のある文字。
懐かしい。
懐かしすぎて胸が痛い。
栞は気づく。
朔弥が頁をめくるたび、
表情が少しずつ変わっていくことに。
百年分の時間が剥がれていくように。
◇
そして。
日記の終盤。
最後の数頁へ辿り着く。
そこから先は、
栞もまだ読んでいなかった。
紙が張り付いていたからだ。
無理に開こうと思わなかった。
けれど今。
不思議なことに。
その頁は自然に開いた。
まるで。
読むべき時が来たとでもいうように。
◇
朔弥は息を呑む。
そこには。
見覚えのある日付が書かれていた。
大正十三年。
四月八日。
その日付を見た瞬間。
朔弥の顔色が変わる。
忘れられるはずがない。
その日は。
すべてが変わった日だった。
◇
震える指で文字を追う。
恒星の最後の日記。
四月八日。
咲希の容態が思わしくない。
本人は笑っている。
だから私も笑う。
けれど怖い。
朔弥は目を伏せる。
恒星は最後まで弱音を見せなかった。
だからこそ。
この文章が苦しかった。
◇
文字は続く。
もし私が約束を果たせなかったら。
もし迎えに行けなかったら。
夜想館を残したい。
帰って来る場所がなくならないように。
栞の呼吸が止まる。
朔弥も動けない。
その先に書かれていた一文を見て。
咲希はきっと帰ってくる。
部屋が静まり返る。
風もない。
音もない。
ただ。
その一文だけがそこにあった。
◇
帰ってくる。
百年前の恒星はそう書いた。
根拠などない。
証拠もない。
それでも信じていた。
誰よりも。
強く。
◇
そして。
日記の最後の最後。
余白に小さく書き足された文字があった。
急いで書いたような。
震えた文字。
朔弥へ。
もし本当に帰ってきたら。
今度は迷わせるな。
その瞬間。
書斎の奥で。
題名のない本が大きく開いた。
ばさり、と。
まるで百年の眠りから目覚めるように。
そして。
白い頁の中央に、
初めて名前が浮かび上がる。
薄く。
淡く。
けれど確かに。
そこに記された文字は――
「咲希」
だった。
百年間、空白だった物語に。
ついに名前が刻まれた。




