催花雨 ― 相川栞③
夜は深まっていた。
雨はまだ静かに降り続いている。
春を呼ぶ雨。
百年前の記憶を呼び覚ます雨。
◇
栞は眠れなかった。
客室の窓から庭を見つめる。
雨粒が石畳を濡らしている。
胸が落ち着かない。
朔弥の表情が頭から離れなかった。
恒星の名前を聞いた時。
咲希の名前を聞いた時。
あの人は確かに動揺していた。
初めて。
長い眠りから目覚めた人のように。
◇
一方。
書斎では。
朔弥が題名のない本を見つめていた。
白い頁。
そこに浮かぶ文字。
消えない。
今までと違う。
まるで誰かが本当に書いているように。
ゆっくりと。
丁寧に。
言葉が現れていく。
朔弥は息を殺した。
そして読む。
『もしこの言葉を読む人がいるなら。』
『その時、私はもうこの世にいないのでしょう。』
『だからお願いがあります。』
『どうか朔弥を責めないでください。』
朔弥の指先が震える。
その文字。
その言葉遣い。
忘れられるはずがない。
「恒星……」
掠れた声が漏れる。
そこに書かれていたのは。
恒星の文章だった。
◇
文字は続く。
『あいつは人のために生きる人です。』
『だからきっと、自分を責め続ける。』
『私がいなくなっても。』
『咲希が泣いても。』
『全部、自分のせいだと思うでしょう。』
朔弥は目を閉じる。
胸が痛む。
百年間。
本当にそうだったから。
あの日。
守れなかった。
助けられなかった。
止められなかった。
そう思い続けてきた。
◇
頁の文字が増えていく。
『でも違います。』
『人生には誰にも変えられない流れがあります。』
『私にも。』
『咲希にも。』
『朔弥にも。』
『だから責めないでほしい。』
雨音が響く。
まるで遠い昔から届く声のように。
◇
その頃。
栞は夢を見ていた。
また同じ夢。
けれど今夜は違う。
今までは遠くから見ているだけだった。
今回は。
その場所に立っていた。
◇
春だった。
満開の桜。
柔らかな風。
夜想館の庭。
若い恒星が立っている。
その隣には咲希。
白いワンピース姿。
嬉しそうに花を見上げている。
栞は二人の姿を見て息を呑む。
懐かしい。
初めて見るはずなのに。
どうしてこんなに懐かしいのだろう。
◇
咲希が振り返る。
そして。
まっすぐ栞を見る。
夢の中なのに。
確かに目が合う。
咲希は驚かなかった。
むしろ。
待っていたように微笑んだ。
「やっと来てくれた」
栞の胸が大きく鳴る。
「え……?」
声が出ない。
咲希は歩み寄る。
優しい笑顔で。
どこか涙を堪えるような笑顔で。
「ごめんね」
その言葉に。
なぜか胸が締め付けられる。
「長い間」
「待たせちゃった」
風が吹く。
桜の花びらが舞う。
景色が光に包まれる。
栞は手を伸ばした。
咲希へ向かって。
けれど届かない。
あと少しなのに。
届かない。
◇
目が覚める。
涙が頬を濡らしていた。
理由は分からない。
でも。
心の奥で何かが確信していた。
この夢は夢ではない。
ただの想像でもない。
百年前から続く何かが、
自分へ語りかけている。
◇
一方。
書斎の本はさらに文字を紡いでいた。
『もし約束が果たせなかった時は。』
『もし私が迎えに行けなかった時は。』
『どうか伝えてください。』
朔弥は息を呑む。
文字を追う。
震える指で。
『私は最後まで咲希を愛していました。』
その一文を読んだ瞬間。
朔弥は目を伏せた。
長い年月の中で初めて。
堪えていた感情が揺れる。
恒星の想い。
果たせなかった約束。
置き去りになった春。
すべてが。
再び動き始めていた。
そして栞が見る夢もまた、
少しずつ真実へ近づいていく。
百年前に途切れた物語の続きを、
取り戻すために。




