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夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

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催花雨 ― 相川栞③

夜は深まっていた。


 雨はまだ静かに降り続いている。


 春を呼ぶ雨。


 百年前の記憶を呼び覚ます雨。



 栞は眠れなかった。


 客室の窓から庭を見つめる。


 雨粒が石畳を濡らしている。


 胸が落ち着かない。


 朔弥の表情が頭から離れなかった。


 恒星の名前を聞いた時。


 咲希の名前を聞いた時。


 あの人は確かに動揺していた。


 初めて。


 長い眠りから目覚めた人のように。



 一方。


 書斎では。


 朔弥が題名のない本を見つめていた。


 白い頁。


 そこに浮かぶ文字。


 消えない。


 今までと違う。


 まるで誰かが本当に書いているように。


 ゆっくりと。


 丁寧に。


 言葉が現れていく。


 朔弥は息を殺した。


 そして読む。


『もしこの言葉を読む人がいるなら。』


『その時、私はもうこの世にいないのでしょう。』


『だからお願いがあります。』


『どうか朔弥を責めないでください。』


 朔弥の指先が震える。


 その文字。


 その言葉遣い。


 忘れられるはずがない。


「恒星……」


 掠れた声が漏れる。


 そこに書かれていたのは。


 恒星の文章だった。



 文字は続く。


『あいつは人のために生きる人です。』


『だからきっと、自分を責め続ける。』


『私がいなくなっても。』


『咲希が泣いても。』


『全部、自分のせいだと思うでしょう。』


 朔弥は目を閉じる。


 胸が痛む。


 百年間。


 本当にそうだったから。


 あの日。


 守れなかった。


 助けられなかった。


 止められなかった。


 そう思い続けてきた。



 頁の文字が増えていく。


『でも違います。』


『人生には誰にも変えられない流れがあります。』


『私にも。』


『咲希にも。』


『朔弥にも。』


『だから責めないでほしい。』


 雨音が響く。


 まるで遠い昔から届く声のように。



 その頃。


 栞は夢を見ていた。


 また同じ夢。


 けれど今夜は違う。


 今までは遠くから見ているだけだった。


 今回は。


 その場所に立っていた。



 春だった。


 満開の桜。


 柔らかな風。


 夜想館の庭。


 若い恒星が立っている。


 その隣には咲希。


 白いワンピース姿。


 嬉しそうに花を見上げている。


 栞は二人の姿を見て息を呑む。


 懐かしい。


 初めて見るはずなのに。


 どうしてこんなに懐かしいのだろう。



 咲希が振り返る。


 そして。


 まっすぐ栞を見る。


 夢の中なのに。


 確かに目が合う。


 咲希は驚かなかった。


 むしろ。


 待っていたように微笑んだ。


「やっと来てくれた」


 栞の胸が大きく鳴る。


「え……?」


 声が出ない。


 咲希は歩み寄る。


 優しい笑顔で。


 どこか涙を堪えるような笑顔で。


「ごめんね」


 その言葉に。


 なぜか胸が締め付けられる。


「長い間」


「待たせちゃった」


 風が吹く。


 桜の花びらが舞う。


 景色が光に包まれる。


 栞は手を伸ばした。


 咲希へ向かって。


 けれど届かない。


 あと少しなのに。


 届かない。



 目が覚める。


 涙が頬を濡らしていた。


 理由は分からない。


 でも。


 心の奥で何かが確信していた。


 この夢は夢ではない。


 ただの想像でもない。


 百年前から続く何かが、


 自分へ語りかけている。



 一方。


 書斎の本はさらに文字を紡いでいた。


『もし約束が果たせなかった時は。』


『もし私が迎えに行けなかった時は。』


『どうか伝えてください。』


 朔弥は息を呑む。


 文字を追う。


 震える指で。


『私は最後まで咲希を愛していました。』


 その一文を読んだ瞬間。


 朔弥は目を伏せた。


 長い年月の中で初めて。


 堪えていた感情が揺れる。


 恒星の想い。


 果たせなかった約束。


 置き去りになった春。


 すべてが。


 再び動き始めていた。


 そして栞が見る夢もまた、


 少しずつ真実へ近づいていく。


 百年前に途切れた物語の続きを、


 取り戻すために。

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