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夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

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催花雨 ― 相川栞②

からん――


 小さなベルが鳴る。


 雨に濡れた栞は、夜想館の扉をくぐった。


 暖かな空気が迎える。


 珈琲の香り。


 木の香り。


 どこか懐かしい空気。


 初めて来たはずなのに。


 なぜか知っている気がした。


「ようこそ」


 静かな声。


 栞は顔を上げる。


 そして息を呑んだ。


 夢で見た人だった。


 黒いベスト。


 整った顔立ち。


 少し寂しそうな瞳。


 何度も夢に現れた青年。


 その人が目の前に立っている。


「……あ」


 声にならない。


 朔弥は不思議そうに首を傾げる。


「どうかなさいましたか」


「い、いえ」


 言えなかった。


 あなたを夢で見ていました、などと。


 自分でも信じられないのだから。



 宿帳へ名前を書く。


 相川 栞


 その瞬間だった。


 書斎の奥。


 本棚の一角で。


 題名のない本が微かに震えた。


 誰も気づかない。


 いや。


 黒猫だけが静かに目を細めていた。



 客室へ案内される途中。


 栞は思わず足を止めた。


 廊下の壁に古い写真が飾られていたからだ。


 夜想館の昔の写真。


 大正時代のものらしい。


 その中に。


 見覚えのある顔があった。


「……!」


 写真の中の青年。


 夢で見た人。


 いや。


 目の前の朔弥その人だった。


 同じ顔。


 同じ姿。


 まるで時間が止まっている。


 栞の背筋に冷たいものが走る。


「古い写真なんですね」


 精一杯そう言う。


「ええ」


 朔弥は静かに答えた。


「大切な写真です」


 それ以上は語らない。


 だが。


 栞の胸のざわめきは大きくなるばかりだった。



 夕食の時間。


 食堂へ降りると、


 朔弥の視線がふと止まった。


 栞の膝の上に置かれた革表紙の日記帳。


 古びた一冊。


 大正時代の日記。


 その瞬間。


 朔弥の瞳が揺れた。


 本当に僅かに。


 だが確かに。


「その日記は……」


 栞は顔を上げる。


「古書店で見つけたんです」


「持ち主は分かりません」


 そう言って差し出す。


 朔弥は受け取らない。


 ただ表紙を見つめる。


 まるで。


 長い間探していたものを見るように。



「中に」


 栞が言う。


「恒星という人の名前が何度も出てくるんです」


 沈黙。


 食堂の空気が変わる。


 暖炉の火が小さく揺れる。


 そして。


 朔弥の表情が初めて崩れた。


 驚きとも。


 動揺とも。


 悲しみともつかない顔。


「恒星を……知っているのですか」


 その声は。


 百年間閉ざされていた扉が開く音に似ていた。


 栞はゆっくり頷く。


「知らないはずなんです」


「でも」


 日記を抱きしめる。


「夢で聞いたことがあります」


 朔弥が息を止める。


「夢で?」


「何度も」


「同じ夢を見ます」


 雨の音が聞こえる。


 遠い記憶のような音。


「この館と」


「あなたと」


「そして」


 栞は言葉を続ける。


「咲希という人の夢を」


 その瞬間。


 暖炉の火が大きく揺れた。


 まるで風が吹いたように。


 しかし窓は閉じている。


 誰も動いていない。


 揺れたのは火だけだった。



 朔弥は立ち尽くす。


 百年間。


 誰も知らなかった名前。


 誰にも語らなかった名前。


 咲希。


 その名前を。


 初対面の女性が口にした。


 まるで。


 昨日会った人のように。


 自然に。


 懐かしそうに。



 その夜。


 書斎では。


 題名のない本が、


 ゆっくりと開いていた。


 一頁。


 また一頁。


 まるで眠りから目覚めるように。


 そして。


 これまで誰にも読まれなかった最初の文章が、


 白い頁へ浮かび上がる。


 淡く。


 儚く。


 それでも確かに。


 そこにはこう記されていた。


 『もしこの言葉を読む人がいるなら――』


 物語は。


 ついに百年前へ繋がろうとしていた。

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