催花雨 ― 相川栞②
からん――
小さなベルが鳴る。
雨に濡れた栞は、夜想館の扉をくぐった。
暖かな空気が迎える。
珈琲の香り。
木の香り。
どこか懐かしい空気。
初めて来たはずなのに。
なぜか知っている気がした。
「ようこそ」
静かな声。
栞は顔を上げる。
そして息を呑んだ。
夢で見た人だった。
黒いベスト。
整った顔立ち。
少し寂しそうな瞳。
何度も夢に現れた青年。
その人が目の前に立っている。
「……あ」
声にならない。
朔弥は不思議そうに首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「い、いえ」
言えなかった。
あなたを夢で見ていました、などと。
自分でも信じられないのだから。
◇
宿帳へ名前を書く。
相川 栞
その瞬間だった。
書斎の奥。
本棚の一角で。
題名のない本が微かに震えた。
誰も気づかない。
いや。
黒猫だけが静かに目を細めていた。
◇
客室へ案内される途中。
栞は思わず足を止めた。
廊下の壁に古い写真が飾られていたからだ。
夜想館の昔の写真。
大正時代のものらしい。
その中に。
見覚えのある顔があった。
「……!」
写真の中の青年。
夢で見た人。
いや。
目の前の朔弥その人だった。
同じ顔。
同じ姿。
まるで時間が止まっている。
栞の背筋に冷たいものが走る。
「古い写真なんですね」
精一杯そう言う。
「ええ」
朔弥は静かに答えた。
「大切な写真です」
それ以上は語らない。
だが。
栞の胸のざわめきは大きくなるばかりだった。
◇
夕食の時間。
食堂へ降りると、
朔弥の視線がふと止まった。
栞の膝の上に置かれた革表紙の日記帳。
古びた一冊。
大正時代の日記。
その瞬間。
朔弥の瞳が揺れた。
本当に僅かに。
だが確かに。
「その日記は……」
栞は顔を上げる。
「古書店で見つけたんです」
「持ち主は分かりません」
そう言って差し出す。
朔弥は受け取らない。
ただ表紙を見つめる。
まるで。
長い間探していたものを見るように。
◇
「中に」
栞が言う。
「恒星という人の名前が何度も出てくるんです」
沈黙。
食堂の空気が変わる。
暖炉の火が小さく揺れる。
そして。
朔弥の表情が初めて崩れた。
驚きとも。
動揺とも。
悲しみともつかない顔。
「恒星を……知っているのですか」
その声は。
百年間閉ざされていた扉が開く音に似ていた。
栞はゆっくり頷く。
「知らないはずなんです」
「でも」
日記を抱きしめる。
「夢で聞いたことがあります」
朔弥が息を止める。
「夢で?」
「何度も」
「同じ夢を見ます」
雨の音が聞こえる。
遠い記憶のような音。
「この館と」
「あなたと」
「そして」
栞は言葉を続ける。
「咲希という人の夢を」
その瞬間。
暖炉の火が大きく揺れた。
まるで風が吹いたように。
しかし窓は閉じている。
誰も動いていない。
揺れたのは火だけだった。
◇
朔弥は立ち尽くす。
百年間。
誰も知らなかった名前。
誰にも語らなかった名前。
咲希。
その名前を。
初対面の女性が口にした。
まるで。
昨日会った人のように。
自然に。
懐かしそうに。
◇
その夜。
書斎では。
題名のない本が、
ゆっくりと開いていた。
一頁。
また一頁。
まるで眠りから目覚めるように。
そして。
これまで誰にも読まれなかった最初の文章が、
白い頁へ浮かび上がる。
淡く。
儚く。
それでも確かに。
そこにはこう記されていた。
『もしこの言葉を読む人がいるなら――』
物語は。
ついに百年前へ繋がろうとしていた。




