表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜想館  作者: 灯野 しおん
第七夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/68

催花雨 ― 相川栞

春を呼ぶ雨がある。


 長い冬を終わらせるために降る雨。


 蕾を開かせるための雨。


 その雨を、


 催花雨さいかうという。



 相川栞は古書店で働いていた。


 今年で二十九歳。


 本に囲まれて生きる毎日は嫌いではない。


 むしろ好きだった。


 静かな店。


 紙の匂い。


 古い物語。


 けれど最近。


 不思議なことが起きていた。


 同じ夢を見るのだ。


 何度も。


 何度も。


 繰り返し。



 夢の中。


 古い洋館がある。


 見たことのない建物。


 琥珀色の灯り。


 そして。


 一人の青年。


 黒いベスト。


 静かな瞳。


 少し寂しそうな横顔。


 その人はいつも本を読んでいる。


 けれど。


 夢の中の栞は知っている。


 その人は本なんて読んでいない。


 誰かを待っているのだ。


 ずっと。


 気が遠くなるほど長い時間。


 たった一人を。


 待ち続けている。


 そんな気がしてならなかった。


 目覚めるたびに胸が苦しくなる。


 理由は分からない。


 会ったこともない人なのに。


 なぜか。


 泣きたくなるほど切なかった。



 その日。


 店の倉庫整理をしていた栞は、


 一冊の古い日記を見つけた。


 埃を被った木箱の中。


 革表紙の日記帳。


 かなり古い。


 百年以上前のものだろう。


「こんなのあったかな」


 ぱらり。


 何気なくページを開く。


 すると。


 達筆な文字が並んでいた。


 大正十二年。


 六月二日。


 という日付。


 栞は思わず手を止める。


 さらに読み進める。


 そこには。


 ある青年の日常が綴られていた。


 珈琲のこと。


 宿のこと。


 庭の花のこと。


 そして。


 頻繁に登場する名前。


 恒星


 栞は眉をひそめる。


 どこかで聞いた気がした。


 いや。


 違う。


 聞いたのではない。


 夢で見たのだ。


 何度も。


 何度も。


 夢の中で。


 あの青年が呼んでいた名前。


「恒星……」


 胸がざわつく。


 ページをめくる指が止まらない。


 すると。


 途中のページに挟まっていた一枚の写真が落ちた。


 古い白黒写真。


 若い男性が二人写っている。


 一人は穏やかな笑顔。


 もう一人は少し照れたような表情。


 そして。


 栞の呼吸が止まる。


「嘘……」


 写真の片方。


 そこに写る青年は。


 夢で見た人物と同じ顔だった。


 寸分違わず。


 まるで。


 昨日撮られた写真のように。



 その日の帰り道。


 空には細かな雨が降っていた。


 催花雨だった。


 春を呼ぶ優しい雨。


 栞は日記帳を抱えて歩いていた。


 胸の鼓動が落ち着かない。


 なぜ夢に出てくるのか。


 なぜこの日記を見つけたのか。


 偶然とは思えなかった。


 その時。


 前方の街灯の下に黒猫が現れた。


 艶のある黒い毛並み。


 金色の瞳。


 どこか懐かしい存在。


 黒猫は栞を見る。


 まるで。


 待っていたと言うように。


 そして。


 ゆっくりと歩き出した。


 雨の向こうへ。


 石畳の先へ。


 琥珀色の灯りが見える場所へ。


 栞は立ち止まる。


 心臓が早鐘を打っていた。


 理由は分からない。


 けれど。


 確信だけがあった。


 あの場所へ行けば。


 夢の続きを知ることになる。


 そして。


 長い時間止まっていた物語が、


 少しだけ動き始める。


 そんな予感がしていた。


 雨の中。


 栞は黒猫の後を追う。


 まだ知らない。


 自分が持つ日記帳こそが、


 朔弥と恒星を結ぶ最後の手がかりの一つであることを。


 そして。


 その日記の最後のページに、


 まだ誰も読んでいない言葉が残されていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ