催花雨 ― 相川栞
春を呼ぶ雨がある。
長い冬を終わらせるために降る雨。
蕾を開かせるための雨。
その雨を、
催花雨という。
◇
相川栞は古書店で働いていた。
今年で二十九歳。
本に囲まれて生きる毎日は嫌いではない。
むしろ好きだった。
静かな店。
紙の匂い。
古い物語。
けれど最近。
不思議なことが起きていた。
同じ夢を見るのだ。
何度も。
何度も。
繰り返し。
◇
夢の中。
古い洋館がある。
見たことのない建物。
琥珀色の灯り。
そして。
一人の青年。
黒いベスト。
静かな瞳。
少し寂しそうな横顔。
その人はいつも本を読んでいる。
けれど。
夢の中の栞は知っている。
その人は本なんて読んでいない。
誰かを待っているのだ。
ずっと。
気が遠くなるほど長い時間。
たった一人を。
待ち続けている。
そんな気がしてならなかった。
目覚めるたびに胸が苦しくなる。
理由は分からない。
会ったこともない人なのに。
なぜか。
泣きたくなるほど切なかった。
◇
その日。
店の倉庫整理をしていた栞は、
一冊の古い日記を見つけた。
埃を被った木箱の中。
革表紙の日記帳。
かなり古い。
百年以上前のものだろう。
「こんなのあったかな」
ぱらり。
何気なくページを開く。
すると。
達筆な文字が並んでいた。
大正十二年。
六月二日。
という日付。
栞は思わず手を止める。
さらに読み進める。
そこには。
ある青年の日常が綴られていた。
珈琲のこと。
宿のこと。
庭の花のこと。
そして。
頻繁に登場する名前。
恒星
栞は眉をひそめる。
どこかで聞いた気がした。
いや。
違う。
聞いたのではない。
夢で見たのだ。
何度も。
何度も。
夢の中で。
あの青年が呼んでいた名前。
「恒星……」
胸がざわつく。
ページをめくる指が止まらない。
すると。
途中のページに挟まっていた一枚の写真が落ちた。
古い白黒写真。
若い男性が二人写っている。
一人は穏やかな笑顔。
もう一人は少し照れたような表情。
そして。
栞の呼吸が止まる。
「嘘……」
写真の片方。
そこに写る青年は。
夢で見た人物と同じ顔だった。
寸分違わず。
まるで。
昨日撮られた写真のように。
◇
その日の帰り道。
空には細かな雨が降っていた。
催花雨だった。
春を呼ぶ優しい雨。
栞は日記帳を抱えて歩いていた。
胸の鼓動が落ち着かない。
なぜ夢に出てくるのか。
なぜこの日記を見つけたのか。
偶然とは思えなかった。
その時。
前方の街灯の下に黒猫が現れた。
艶のある黒い毛並み。
金色の瞳。
どこか懐かしい存在。
黒猫は栞を見る。
まるで。
待っていたと言うように。
そして。
ゆっくりと歩き出した。
雨の向こうへ。
石畳の先へ。
琥珀色の灯りが見える場所へ。
栞は立ち止まる。
心臓が早鐘を打っていた。
理由は分からない。
けれど。
確信だけがあった。
あの場所へ行けば。
夢の続きを知ることになる。
そして。
長い時間止まっていた物語が、
少しだけ動き始める。
そんな予感がしていた。
雨の中。
栞は黒猫の後を追う。
まだ知らない。
自分が持つ日記帳こそが、
朔弥と恒星を結ぶ最後の手がかりの一つであることを。
そして。
その日記の最後のページに、
まだ誰も読んでいない言葉が残されていることを。




