開き始めた頁
夜は静かだった。
氷雨は去り、
空には淡い月が浮かんでいる。
冬の終わり。
春の入口。
季節は確かに動いていた。
けれど。
夜想館の中だけは、
百年前と変わらない時間が流れているようだった。
◇
佐伯隆一が去った翌夜。
朔弥は書斎にいた。
机の上には一冊の卒業アルバム。
昨夜の客人が残していった本だった。
何気なく開く。
若い笑顔が並んでいる。
未来を信じている顔。
希望に満ちた顔。
失敗も挫折も、
まだ知らない頃の顔。
朔弥はページをめくる。
その一人ひとりに人生があった。
出会いがあり、
別れがあり、
涙があり、
笑顔があった。
そして今も続いている。
ある者は祖父になり。
ある者は母になり。
ある者は旅立ったかもしれない。
だが。
皆、自分の時間を生きている。
前へ進みながら。
◇
「羨ましいですか」
不意に声がした。
黒猫だった。
もちろん猫は喋らない。
けれど。
そんな問いを投げかけられた気がした。
朔弥は小さく笑う。
「どうでしょう」
答えになっていない答え。
昔なら否定した。
けれど今は。
少しだけ分かってしまう。
客人たちの姿を見ていると。
前へ進めることが、
どれほど尊いことか。
◇
時計が午前零時を告げる。
ごうん。
ごうん。
重い音が館へ響く。
その瞬間。
書斎の空気が変わった。
まるで。
誰かが入ってきたように。
朔弥は顔を上げる。
誰もいない。
だが。
花の香りがした。
最近よく感じる香り。
春の花。
咲希が好きだった花の香り。
◇
ぱらり。
静かな音が響く。
題名のない本だった。
白い表紙がひとりでに開く。
朔弥は立ち上がる。
今までと違った。
今回は一頁ではない。
数枚。
いや。
十数頁がゆっくりと開いていく。
まるで。
長い眠りから目覚めるように。
固く閉じていた時間が動き出すように。
◇
白紙だった頁。
そこに。
文字が浮かび始める。
淡く。
儚く。
月明かりに滲むように。
最初は読めない。
けれど。
徐々に形になる。
そして現れた言葉は。
「約束の日を覚えていますか」
朔弥の呼吸が止まる。
覚えている。
忘れたことなどない。
忘れられるはずがない。
あの日を。
あの春の日を。
◇
記憶が蘇る。
桜が咲いていた。
空は青かった。
咲希は笑っていた。
恒星も笑っていた。
未来を疑っていなかった頃。
約束が約束のままで終わるなど、
誰も思っていなかった頃。
『また来年も見ましょうね』
咲希が言った。
桜を見上げながら。
『来年も、その次も』
恒星が頷いた。
『約束だ』
あまりにも当たり前の約束だった。
誰も疑わない未来だった。
だからこそ。
失われた時の痛みは深かった。
◇
朔弥は本を見つめる。
文字はまだ残っている。
これまでとは違う。
すぐには消えない。
まるで。
何かを伝えようとしているように。
何かを思い出させようとしているように。
「あなたは……誰です」
思わず問いかける。
本は答えない。
けれど。
ふわりと風が吹いた。
閉じた窓の内側で。
あり得ない風が。
そして文字の下に、
もう一行だけ言葉が現れる。
震えるほど小さく。
消えそうな文字で。
「私は忘れていません」
◇
朔弥は目を閉じる。
胸が苦しい。
百年もの間、
心の奥へ閉じ込めていた感情が揺れている。
期待してはいけない。
そう思ってきた。
何度も。
何度も。
けれど。
もし。
本当にもし。
約束が終わっていないのだとしたら。
もし。
誰かが今も覚えているのだとしたら。
その時。
夜想館は何を迎えるのだろう。
◇
黒猫が本棚から降りる。
そして玄関の方を向いた。
金色の瞳が静かに細くなる。
まるで。
もうすぐ誰かが来ることを知っているように。
長い長い旅路の果てに。
ようやく辿り着く誰かを。
◇
題名のない本は開いたままだった。
閉じようとしない。
百年間閉ざされていた頁が、
ついに動き始めている。
それは本の変化ではない。
運命そのものの変化だった。
そして次の客人は。
一冊の古い日記と共に、
百年前の約束の欠片を運んでくる。
誰も知らなかった真実を。
眠り続けていた物語の続きを。
夜想館へ届けるために。




