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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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開き始めた頁

夜は静かだった。


 氷雨は去り、


 空には淡い月が浮かんでいる。


 冬の終わり。


 春の入口。


 季節は確かに動いていた。


 けれど。


 夜想館の中だけは、


 百年前と変わらない時間が流れているようだった。



 佐伯隆一が去った翌夜。


 朔弥は書斎にいた。


 机の上には一冊の卒業アルバム。


 昨夜の客人が残していった本だった。


 何気なく開く。


 若い笑顔が並んでいる。


 未来を信じている顔。


 希望に満ちた顔。


 失敗も挫折も、


 まだ知らない頃の顔。


 朔弥はページをめくる。


 その一人ひとりに人生があった。


 出会いがあり、


 別れがあり、


 涙があり、


 笑顔があった。


 そして今も続いている。


 ある者は祖父になり。


 ある者は母になり。


 ある者は旅立ったかもしれない。


 だが。


 皆、自分の時間を生きている。


 前へ進みながら。



「羨ましいですか」


 不意に声がした。


 黒猫だった。


 もちろん猫は喋らない。


 けれど。


 そんな問いを投げかけられた気がした。


 朔弥は小さく笑う。


「どうでしょう」


 答えになっていない答え。


 昔なら否定した。


 けれど今は。


 少しだけ分かってしまう。


 客人たちの姿を見ていると。


 前へ進めることが、


 どれほど尊いことか。



 時計が午前零時を告げる。


 ごうん。


 ごうん。


 重い音が館へ響く。


 その瞬間。


 書斎の空気が変わった。


 まるで。


 誰かが入ってきたように。


 朔弥は顔を上げる。


 誰もいない。


 だが。


 花の香りがした。


 最近よく感じる香り。


 春の花。


 咲希が好きだった花の香り。



 ぱらり。


 静かな音が響く。


 題名のない本だった。


 白い表紙がひとりでに開く。


 朔弥は立ち上がる。


 今までと違った。


 今回は一頁ではない。


 数枚。


 いや。


 十数頁がゆっくりと開いていく。


 まるで。


 長い眠りから目覚めるように。


 固く閉じていた時間が動き出すように。



 白紙だった頁。


 そこに。


 文字が浮かび始める。


 淡く。


 儚く。


 月明かりに滲むように。


 最初は読めない。


 けれど。


 徐々に形になる。


 そして現れた言葉は。


 「約束の日を覚えていますか」


 朔弥の呼吸が止まる。


 覚えている。


 忘れたことなどない。


 忘れられるはずがない。


 あの日を。


 あの春の日を。



 記憶が蘇る。


 桜が咲いていた。


 空は青かった。


 咲希は笑っていた。


 恒星も笑っていた。


 未来を疑っていなかった頃。


 約束が約束のままで終わるなど、


 誰も思っていなかった頃。


『また来年も見ましょうね』


 咲希が言った。


 桜を見上げながら。


『来年も、その次も』


 恒星が頷いた。


『約束だ』


 あまりにも当たり前の約束だった。


 誰も疑わない未来だった。


 だからこそ。


 失われた時の痛みは深かった。



 朔弥は本を見つめる。


 文字はまだ残っている。


 これまでとは違う。


 すぐには消えない。


 まるで。


 何かを伝えようとしているように。


 何かを思い出させようとしているように。


「あなたは……誰です」


 思わず問いかける。


 本は答えない。


 けれど。


 ふわりと風が吹いた。


 閉じた窓の内側で。


 あり得ない風が。


 そして文字の下に、


 もう一行だけ言葉が現れる。


 震えるほど小さく。


 消えそうな文字で。


 「私は忘れていません」



 朔弥は目を閉じる。


 胸が苦しい。


 百年もの間、


 心の奥へ閉じ込めていた感情が揺れている。


 期待してはいけない。


 そう思ってきた。


 何度も。


 何度も。


 けれど。


 もし。


 本当にもし。


 約束が終わっていないのだとしたら。


 もし。


 誰かが今も覚えているのだとしたら。


 その時。


 夜想館は何を迎えるのだろう。



 黒猫が本棚から降りる。


 そして玄関の方を向いた。


 金色の瞳が静かに細くなる。


 まるで。


 もうすぐ誰かが来ることを知っているように。


 長い長い旅路の果てに。


 ようやく辿り着く誰かを。



 題名のない本は開いたままだった。


 閉じようとしない。


 百年間閉ざされていた頁が、


 ついに動き始めている。


 それは本の変化ではない。


 運命そのものの変化だった。


 そして次の客人は。


 一冊の古い日記と共に、


 百年前の約束の欠片を運んでくる。


 誰も知らなかった真実を。


 眠り続けていた物語の続きを。


 夜想館へ届けるために。

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