氷雨 ― 佐伯隆一④
桜の花びらが舞っていた。
風は優しかった。
温かかった。
夢の中の妻は笑っている。
若い頃と同じように。
何十年も一緒に生きてきた人の笑顔で。
「こちらこそ」
その言葉が胸に残る。
深く。
静かに。
隆一の心へ染み込んでいく。
そして景色は白く溶けていった。
◇
目を覚ます。
朝だった。
窓の外はまだ曇っている。
けれど。
氷雨は止んでいた。
雲の切れ間から細い光が差し込んでいる。
隆一はゆっくり起き上がる。
胸の奥が不思議なほど穏やかだった。
病気が治ったわけではない。
残された時間が増えたわけでもない。
何も変わっていない。
それなのに。
何かが変わっていた。
「帰ったら言おう」
静かに呟く。
今度こそ。
照れずに。
誤魔化さずに。
ちゃんと。
妻へ。
◇
朝食の席。
窓際には柔らかな光が差していた。
焼き魚。
炊き立てのご飯。
味噌汁。
昔ながらの朝食。
隆一は美味しそうに箸を動かす。
その様子を見ながら。
朔弥は珈琲を淹れていた。
「良い夢をご覧になりましたか」
静かな問い。
隆一は笑う。
「ええ」
しばらく考えてから。
「人生で一番幸せな夢だったかもしれません」
朔弥は何も聞かない。
それでも。
隆一は話したくなった。
「妻にありがとうを言えました」
その言葉に。
朔弥の手が少しだけ止まる。
「そうですか」
いつも通りの返事。
けれど。
どこか優しかった。
「不思議ですな」
隆一は笑う。
「夢の中だったのに」
「ちゃんと届いた気がする」
珈琲の湯気が揺れる。
朔弥は窓の外を見た。
曇り空の向こう。
まだ見えない春を探すように。
「届くのかもしれません」
ぽつりと言う。
誰に向けた言葉だったのか。
隆一には分からなかった。
だが。
その声には長い年月が滲んでいた。
◇
出発の時間が来る。
隆一は鞄から一冊の本を取り出した。
古びた卒業アルバムだった。
教え子たちから贈られたもの。
ページの端は擦り切れている。
何度も開いた証だった。
「宿代です」
朔弥が受け取る。
「大切な本ですね」
「ええ」
隆一は頷く。
「私の人生です」
その言葉に嘘はなかった。
教師として生きた日々。
家族と歩いた時間。
笑ったこと。
悩んだこと。
すべてがそこにあった。
◇
玄関の扉が開く。
冷たい空気。
だが昨日ほど寒くない。
春は近い。
そんな気がした。
隆一は振り返る。
夜想館。
暖かな灯り。
静かな宿。
そして。
見送る朔弥。
「行ってらっしゃいませ」
いつもの言葉。
だが。
今日の朔弥の声は少しだけ違っていた。
どこか柔らかい。
どこか遠くを見ている。
隆一はふと笑った。
「あなたも」
朔弥が顔を上げる。
「春を待っているんでしょうな」
その一言に。
朔弥は返事をしなかった。
できなかった。
百年以上。
止まっていた時間。
閉じ込めていた想い。
忘れたふりをしてきた約束。
それらを見透かされた気がしたから。
隆一はそれ以上何も言わない。
ただ穏やかに微笑む。
「大丈夫ですよ」
「春は来ます」
教師が生徒へ言うような声だった。
そして。
佐伯隆一は夜想館を後にした。
◇
その夜。
書斎。
本棚には新しい一冊が並んでいた。
『佐伯隆一』
黒猫が本棚の上から見下ろしている。
朔弥はしばらく黙って立っていた。
そして。
題名のない本へ手を伸ばす。
冷たい表紙。
変わらない感触。
だが。
今日は違った。
表紙の中央に。
ほんの一瞬だけ。
淡い文字が浮かび上がる。
まるで春霞のように。
消えてしまいそうなほど儚く。
それでも確かに。
そこには一文字だけ記されていた。
「さ」
朔弥の呼吸が止まる。
次の瞬間には消えていた。
何もない表紙。
いつも通り。
だが。
朔弥は知っていた。
今のは幻ではない。
百年以上開かなかった物語が、
少しずつ目を覚まし始めている。
そして次の客人は。
偶然では済まされない縁を連れてくる。
朔弥自身の過去へ繋がる、
一冊の古い日記と共に。




