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夜想館  作者: 灯野 しおん
第六夜

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39/68

氷雨 ― 佐伯隆一④

 桜の花びらが舞っていた。


 風は優しかった。

 温かかった。


 夢の中の妻は笑っている。

 若い頃と同じように。

 何十年も一緒に生きてきた人の笑顔で。


「こちらこそ」

 その言葉が胸に残る。

 深く。

 静かに。

 隆一の心へ染み込んでいく。

 そして景色は白く溶けていった。



 目を覚ます。


 朝だった。

 窓の外はまだ曇っている。

 けれど。

 氷雨は止んでいた。


 雲の切れ間から細い光が差し込んでいる。

 隆一はゆっくり起き上がる。

 胸の奥が不思議なほど穏やかだった。


 病気が治ったわけではない。

 残された時間が増えたわけでもない。


 何も変わっていない。

 それなのに。

 何かが変わっていた。


「帰ったら言おう」

 静かに呟く。


 今度こそ。

 照れずに。

 誤魔化さずに。

 ちゃんと。

 妻へ。



 朝食の席。

 窓際には柔らかな光が差していた。


 焼き魚。

 炊き立てのご飯。

 味噌汁。

 昔ながらの朝食。


 隆一は美味しそうに箸を動かす。


 その様子を見ながら。

 朔弥は珈琲を淹れていた。

「良い夢をご覧になりましたか」

 静かな問い。


 隆一は笑う。

「ええ」


 しばらく考えてから。

「人生で一番幸せな夢だったかもしれません」


 朔弥は何も聞かない。

 それでも。

 隆一は話したくなった。


「妻にありがとうを言えました」

 その言葉に。

 朔弥の手が少しだけ止まる。

「そうですか」

 いつも通りの返事。


 けれど。

 どこか優しかった。


「不思議ですな」

 隆一は笑う。

「夢の中だったのに」

「ちゃんと届いた気がする」


 珈琲の湯気が揺れる。

 朔弥は窓の外を見た。


 曇り空の向こう。

 まだ見えない春を探すように。

「届くのかもしれません」

 ぽつりと言う。


 誰に向けた言葉だったのか。

 隆一には分からなかった。

 だが。

 その声には長い年月が滲んでいた。



 出発の時間が来る。

 隆一は鞄から一冊の本を取り出した。


 古びた卒業アルバムだった。

 教え子たちから贈られたもの。

 ページの端は擦り切れている。

 何度も開いた証だった。

「宿代です」


 朔弥が受け取る。

「大切な本ですね」

「ええ」

 隆一は頷く。

「私の人生です」

 その言葉に嘘はなかった。


 教師として生きた日々。

 家族と歩いた時間。

 笑ったこと。

 悩んだこと。

 すべてがそこにあった。



 玄関の扉が開く。

 冷たい空気。

 だが昨日ほど寒くない。


 春は近い。

 そんな気がした。

 隆一は振り返る。


 夜想館。

 暖かな灯り。

 静かな宿。

 そして。

 見送る朔弥。

「行ってらっしゃいませ」


 いつもの言葉。

 だが。

 今日の朔弥の声は少しだけ違っていた。


 どこか柔らかい。

 どこか遠くを見ている。


 隆一はふと笑った。

「あなたも」

 朔弥が顔を上げる。

「春を待っているんでしょうな」


 その一言に。

 朔弥は返事をしなかった。


 できなかった。

 百年以上。

 止まっていた時間。

 閉じ込めていた想い。

 忘れたふりをしてきた約束。

 それらを見透かされた気がしたから。


 隆一はそれ以上何も言わない。

 ただ穏やかに微笑む。

「大丈夫ですよ」

「春は来ます」

 教師が生徒へ言うような声だった。


 そして。

 佐伯隆一は夜想館を後にした。



 その夜。

 書斎。

 本棚には新しい一冊が並んでいた。


 『佐伯隆一』

 黒猫が本棚の上から見下ろしている。

 朔弥はしばらく黙って立っていた。


 そして。

 題名のない本へ手を伸ばす。


 冷たい表紙。

 変わらない感触。


 だが。

 今日は違った。


 表紙の中央に。

 ほんの一瞬だけ。

 淡い文字が浮かび上がる。

 まるで春霞のように。

 消えてしまいそうなほど儚く。


 それでも確かに。

 そこには一文字だけ記されていた。


 「さ」


 朔弥の呼吸が止まる。

 次の瞬間には消えていた。


 何もない表紙。

 いつも通り。


 だが。

 朔弥は知っていた。

 今のは幻ではない。


 百年以上開かなかった物語が、

 少しずつ目を覚まし始めている。


 そして次の客人は。

 偶然では済まされない縁を連れてくる。

 朔弥自身の過去へ繋がる、

 一冊の古い日記と共に。

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