表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜想館  作者: 灯野 しおん
第六夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/68

氷雨 ― 佐伯隆一③

暖炉の火が静かに揺れていた。


 外では氷雨が降り続いている。


 冬の終わりを告げるような冷たい雨だった。


「言えなかった言葉」


 隆一の言葉が食堂に残る。


 朔弥は答えない。


 けれど。


 否定もしなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 隆一は少し笑う。


「人は誰でもありますよ」


「言えばよかった言葉が」


 珈琲の香りが広がる。


 朔弥はカップを置いた。


 白い湯気が立ち昇る。


「先生は後悔していますか」


 隆一は考える。


 少しだけ。


 長い時間をかけて。


「していますな」


 正直に答えた。


「けれど」


 珈琲へ視線を落とす。


「後悔しているのは、言わなかったことです」


「愛したことではない」


 朔弥の瞳が揺れる。


 ほんのわずかに。


 誰にも気づかれないほど小さく。


「大事なのはそこかもしれません」


 隆一は笑った。


「人生というのは案外短い」


「百年あっても足りない」


 その言葉に。


 朔弥の手が止まった。


 百年。


 まるで知っているかのような数字。


 だが隆一は気づいていない。


 ただ何気なく言っただけだった。


「だから」


 隆一は続ける。


「伝えたいことは伝えた方がいい」


「届くかどうかじゃない」


「言うことが大事なんです」


 静かな言葉だった。


 教師らしい。


 押しつけではなく。


 経験から生まれた言葉。


 朔弥は返事をしなかった。


 ただ。


 窓の外を見た。


 雨の向こう。


 遠い遠い過去を見るように。



 その夜。


 隆一は客室で眠りについた。


 深い眠りだった。


 そして夢を見る。


 春だった。


 桜が咲いている。


 若い頃の自分がいる。


 まだ二十代。


 教師になったばかり。


 緊張しながら教壇に立っている。


 教室の窓から桜が見える。


 生徒たちが騒いでいる。


 懐かしい。


 思わず笑ってしまうほど。


 懐かしい。


 景色が変わる。


 今度は結婚式の日。


 白無垢姿の妻。


 恥ずかしそうに笑っている。


 若かった。


 お互いに。


 何も持っていなかった。


 お金も。


 余裕も。


 未来への保証も。


 それでも。


 幸せだった。


 景色はさらに流れていく。


 子どもが生まれた日。


 初めて抱き上げた小さな命。


 運動会。


 卒業式。


 家族旅行。


 些細な日々。


 平凡な時間。


 けれど。


 どれも宝物だった。


 そして。


 最後に一つの光景へ辿り着く。


 現在の家だった。


 夕暮れの居間。


 妻が一人で洗い物をしている。


 背中が少し小さくなっている。


 髪には白いものが混じっている。


 長い年月が流れた証。


 その姿を見た瞬間。


 隆一の胸がいっぱいになる。


 五十年。


 本当に長かった。


 いや。


 振り返ればあっという間だった。


 妻は振り返る。


 夢の中なのに。


 まるで隆一が見えているかのように。


 そして笑う。


 若い頃と同じ笑顔で。


「どうしたの?」


 その一言で。


 隆一は泣きそうになった。


 伝えたい言葉があった。


 ずっと。


 何十年も。


 胸の中にあった言葉。


「ありがとう」


 震える声で言う。


「本当に」


「ありがとう」


 妻は少し驚いた顔をした。


 それから。


 いつものように笑った。


「今さらね」


 そう言いながら。


 目が少し潤んでいる。


 そして。


「こちらこそ」


 と答えた。


 春の風が吹く。


 桜の花びらが舞う。


 景色が光に包まれていく。


 隆一はその温かさの中で思った。


 言葉は遅れて届くことがある。


 何年も。


 何十年も。


 時には百年を越えて。


 それでも。


 届く時は届くのだと。


 その言葉は。


 夢の中の自分だけではなく。


 どこかで聞いている朔弥の心にも、


 静かに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ