氷雨 ― 佐伯隆一③
暖炉の火が静かに揺れていた。
外では氷雨が降り続いている。
冬の終わりを告げるような冷たい雨だった。
「言えなかった言葉」
隆一の言葉が食堂に残る。
朔弥は答えない。
けれど。
否定もしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
隆一は少し笑う。
「人は誰でもありますよ」
「言えばよかった言葉が」
珈琲の香りが広がる。
朔弥はカップを置いた。
白い湯気が立ち昇る。
「先生は後悔していますか」
隆一は考える。
少しだけ。
長い時間をかけて。
「していますな」
正直に答えた。
「けれど」
珈琲へ視線を落とす。
「後悔しているのは、言わなかったことです」
「愛したことではない」
朔弥の瞳が揺れる。
ほんのわずかに。
誰にも気づかれないほど小さく。
「大事なのはそこかもしれません」
隆一は笑った。
「人生というのは案外短い」
「百年あっても足りない」
その言葉に。
朔弥の手が止まった。
百年。
まるで知っているかのような数字。
だが隆一は気づいていない。
ただ何気なく言っただけだった。
「だから」
隆一は続ける。
「伝えたいことは伝えた方がいい」
「届くかどうかじゃない」
「言うことが大事なんです」
静かな言葉だった。
教師らしい。
押しつけではなく。
経験から生まれた言葉。
朔弥は返事をしなかった。
ただ。
窓の外を見た。
雨の向こう。
遠い遠い過去を見るように。
◇
その夜。
隆一は客室で眠りについた。
深い眠りだった。
そして夢を見る。
春だった。
桜が咲いている。
若い頃の自分がいる。
まだ二十代。
教師になったばかり。
緊張しながら教壇に立っている。
教室の窓から桜が見える。
生徒たちが騒いでいる。
懐かしい。
思わず笑ってしまうほど。
懐かしい。
景色が変わる。
今度は結婚式の日。
白無垢姿の妻。
恥ずかしそうに笑っている。
若かった。
お互いに。
何も持っていなかった。
お金も。
余裕も。
未来への保証も。
それでも。
幸せだった。
景色はさらに流れていく。
子どもが生まれた日。
初めて抱き上げた小さな命。
運動会。
卒業式。
家族旅行。
些細な日々。
平凡な時間。
けれど。
どれも宝物だった。
そして。
最後に一つの光景へ辿り着く。
現在の家だった。
夕暮れの居間。
妻が一人で洗い物をしている。
背中が少し小さくなっている。
髪には白いものが混じっている。
長い年月が流れた証。
その姿を見た瞬間。
隆一の胸がいっぱいになる。
五十年。
本当に長かった。
いや。
振り返ればあっという間だった。
妻は振り返る。
夢の中なのに。
まるで隆一が見えているかのように。
そして笑う。
若い頃と同じ笑顔で。
「どうしたの?」
その一言で。
隆一は泣きそうになった。
伝えたい言葉があった。
ずっと。
何十年も。
胸の中にあった言葉。
「ありがとう」
震える声で言う。
「本当に」
「ありがとう」
妻は少し驚いた顔をした。
それから。
いつものように笑った。
「今さらね」
そう言いながら。
目が少し潤んでいる。
そして。
「こちらこそ」
と答えた。
春の風が吹く。
桜の花びらが舞う。
景色が光に包まれていく。
隆一はその温かさの中で思った。
言葉は遅れて届くことがある。
何年も。
何十年も。
時には百年を越えて。
それでも。
届く時は届くのだと。
その言葉は。
夢の中の自分だけではなく。
どこかで聞いている朔弥の心にも、
静かに落ちていった。




