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夜想館  作者: 灯野 しおん
第六夜

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氷雨 ― 佐伯隆一②

「ようこそ」


 朔弥は静かに頭を下げた。


 隆一も軽く会釈を返す。


「立派な宿ですな」


「ありがとうございます」


 暖炉の火が揺れている。


 外の寒さが嘘のようだった。


 隆一はゆっくりと館内を見回した。


 古い柱。


 本棚。


 珈琲の香り。


 どこか懐かしい。


 まるで昔読んだ物語の中へ入り込んだようだった。


「お名前を」


 宿帳が開かれる。


 隆一は万年筆を受け取った。


 少し震える手。


 年齢のせいだろう。


 それでも丁寧に書く。


 佐伯 隆一


 インクが紙へ染み込んでいく。


 その瞬間。


 ふわりと風が吹いた気がした。


 春の匂いだった。


「おや」


 思わず呟く。


 だが次の瞬間には消えていた。


 朔弥は何も言わない。


 ただ静かに宿帳を閉じた。



 夕食まで少し時間があった。


 隆一は暖炉の前に座る。


 黒猫が近くへやって来た。


「君が案内してくれたのか」


 猫は答えない。


 当然だ。


 だが。


 金色の瞳がどこか賢そうだった。


「ありがとう」


 そう言うと。


 黒猫は目を細めた。


 まるで返事をするみたいに。



 やがて夕食の時間になる。


 食堂へ案内された隆一は、


 運ばれてきた料理を見て足を止めた。


「これは……」


 目の前には。


 肉じゃが。


 出汁巻き卵。


 炊き込みご飯。


 ほうれん草のおひたし。


 味噌汁。


 豪華ではない。


 けれど。


 どれも見覚えがあった。


「妻の料理ですな」


 自然と笑みがこぼれる。


 五十年近く食べてきた味。


 少し甘めの肉じゃが。


 出汁の効いた卵焼き。


 忘れるはずがない。


 朔弥は静かに聞いている。


「美味しいんですよ」


 隆一は箸を取りながら言う。


「若い頃からずっと」


 一口食べる。


 懐かしい。


 胸が熱くなるほど。


 懐かしい。


「私は幸せ者なんです」


 ぽつりと言う。


「家族にも恵まれました」


「仕事にも恵まれました」


「友人にも」


 そこまで言って。


 箸が止まる。


 朔弥は黙って待っている。


「なのに」


 隆一は笑った。


 少しだけ寂しそうに。


「一つだけ言えなかった」


「何をですか」


 朔弥が尋ねる。


 隆一はしばらく考えた。


 そして答える。


「ありがとうですよ」


 暖炉の火が揺れる。


 食堂が静かになる。


「毎日思っていたんです」


「感謝していた」


「でも言わなかった」


「明日でいいと思っていた」


 声が少し掠れる。


「気づけば五十年です」


 苦笑する。


「教師なのにね」


「言葉の大切さを教えていたくせに」


 自分では言えなかった。


 その言葉だけ。


 朔弥は静かに珈琲を淹れ始める。


 ぽこぽことお湯が上がる。


 柔らかな音。


 隆一はその音を聞きながら言った。


「人間というのは不思議ですな」


「大切なことほど後回しにする」


 朔弥の手が一瞬だけ止まる。


 ほんのわずかに。


 誰にも分からないほど。


 だが。


 隆一は教師だった。


 人を見る仕事をしてきた。


 だから気づいた。


 この青年も。


 何か言えなかった言葉を抱えている。


 長い長い時間。


 ずっと。


「あなたもですか」


 隆一が静かに言う。


 朔弥は顔を上げる。


 驚いたように。


「……何がでしょう」


「言えなかった言葉」


 暖炉の火が揺れる。


 外では氷雨が静かに降っている。


 朔弥はすぐには答えなかった。


 けれど。


 その瞳の奥に、


 百年以上消えない痛みが宿っていることだけは、


 確かに伝わってきた。


 そしてこの夜。


 佐伯隆一は人生の最後の宿題と向き合い、


 朔弥は自分でも触れられなかった心の扉へ、


 少しだけ近づくことになる。

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