氷雨 ― 佐伯隆一②
「ようこそ」
朔弥は静かに頭を下げた。
隆一も軽く会釈を返す。
「立派な宿ですな」
「ありがとうございます」
暖炉の火が揺れている。
外の寒さが嘘のようだった。
隆一はゆっくりと館内を見回した。
古い柱。
本棚。
珈琲の香り。
どこか懐かしい。
まるで昔読んだ物語の中へ入り込んだようだった。
「お名前を」
宿帳が開かれる。
隆一は万年筆を受け取った。
少し震える手。
年齢のせいだろう。
それでも丁寧に書く。
佐伯 隆一
インクが紙へ染み込んでいく。
その瞬間。
ふわりと風が吹いた気がした。
春の匂いだった。
「おや」
思わず呟く。
だが次の瞬間には消えていた。
朔弥は何も言わない。
ただ静かに宿帳を閉じた。
◇
夕食まで少し時間があった。
隆一は暖炉の前に座る。
黒猫が近くへやって来た。
「君が案内してくれたのか」
猫は答えない。
当然だ。
だが。
金色の瞳がどこか賢そうだった。
「ありがとう」
そう言うと。
黒猫は目を細めた。
まるで返事をするみたいに。
◇
やがて夕食の時間になる。
食堂へ案内された隆一は、
運ばれてきた料理を見て足を止めた。
「これは……」
目の前には。
肉じゃが。
出汁巻き卵。
炊き込みご飯。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
豪華ではない。
けれど。
どれも見覚えがあった。
「妻の料理ですな」
自然と笑みがこぼれる。
五十年近く食べてきた味。
少し甘めの肉じゃが。
出汁の効いた卵焼き。
忘れるはずがない。
朔弥は静かに聞いている。
「美味しいんですよ」
隆一は箸を取りながら言う。
「若い頃からずっと」
一口食べる。
懐かしい。
胸が熱くなるほど。
懐かしい。
「私は幸せ者なんです」
ぽつりと言う。
「家族にも恵まれました」
「仕事にも恵まれました」
「友人にも」
そこまで言って。
箸が止まる。
朔弥は黙って待っている。
「なのに」
隆一は笑った。
少しだけ寂しそうに。
「一つだけ言えなかった」
「何をですか」
朔弥が尋ねる。
隆一はしばらく考えた。
そして答える。
「ありがとうですよ」
暖炉の火が揺れる。
食堂が静かになる。
「毎日思っていたんです」
「感謝していた」
「でも言わなかった」
「明日でいいと思っていた」
声が少し掠れる。
「気づけば五十年です」
苦笑する。
「教師なのにね」
「言葉の大切さを教えていたくせに」
自分では言えなかった。
その言葉だけ。
朔弥は静かに珈琲を淹れ始める。
ぽこぽことお湯が上がる。
柔らかな音。
隆一はその音を聞きながら言った。
「人間というのは不思議ですな」
「大切なことほど後回しにする」
朔弥の手が一瞬だけ止まる。
ほんのわずかに。
誰にも分からないほど。
だが。
隆一は教師だった。
人を見る仕事をしてきた。
だから気づいた。
この青年も。
何か言えなかった言葉を抱えている。
長い長い時間。
ずっと。
「あなたもですか」
隆一が静かに言う。
朔弥は顔を上げる。
驚いたように。
「……何がでしょう」
「言えなかった言葉」
暖炉の火が揺れる。
外では氷雨が静かに降っている。
朔弥はすぐには答えなかった。
けれど。
その瞳の奥に、
百年以上消えない痛みが宿っていることだけは、
確かに伝わってきた。
そしてこの夜。
佐伯隆一は人生の最後の宿題と向き合い、
朔弥は自分でも触れられなかった心の扉へ、
少しだけ近づくことになる。




