氷雨 ― 佐伯隆一
冬の終わりだった。
空は灰色。
冷たい風が吹いている。
季節外れの氷雨が街を濡らしていた。
佐伯隆一は病院の玄関を出た。
右手には封筒。
診察結果が入っている。
聞かされた内容は簡単だった。
そして重かった。
治療は続けられる。
だが完治は難しい。
残された時間は長くない。
医師は丁寧だった。
家族のこと。
今後のこと。
様々な話をしてくれた。
隆一も落ち着いて聞いていた。
驚くほど冷静だった。
もう七十八歳だ。
いつか来ると思っていた。
だから受け入れられる。
そう思っていた。
けれど。
病院を出た瞬間。
足が止まった。
雨の冷たさが頬に触れる。
胸の奥で何かが静かに揺れた。
「まだ……」
声が漏れる。
「まだだったんだな」
死ぬ覚悟ではない。
生きたい気持ちだった。
自分でも意外だった。
もっと生きたい。
孫の成長を見たい。
春を見たい。
妻ともう少し話したい。
そんな当たり前の願いが、
今になって溢れてくる。
◇
隆一は元教師だった。
四十年以上。
教壇に立った。
数え切れないほどの生徒を送り出した。
誇りのある人生だったと思う。
妻とも仲が良かった。
子どもたちも自立した。
幸せな人生だった。
そう言える。
それでも。
人には最後まで残る後悔がある。
隆一にも一つだけあった。
妻へ。
言えなかった言葉だった。
結婚して五十年近く。
感謝はしている。
愛している。
誰よりも大切に思っている。
けれど。
一度も口にしたことがなかった。
照れくさかった。
今さら言えなかった。
そのまま時間だけが過ぎてしまった。
「情けないな」
隆一は苦笑した。
若い頃なら笑っただろう。
だが今は。
本気で後悔していた。
◇
冷たい雨が強くなる。
氷雨だった。
細く。
静かで。
どこか寂しい雨。
その時。
前方に黒猫が現れた。
街灯の下。
金色の瞳。
黒い毛並み。
まるで夜から切り取られた影のようだった。
「おや」
隆一は立ち止まる。
猫はじっとこちらを見ている。
そして。
ゆっくり歩き始めた。
振り返りながら。
まるで。
こちらを待つように。
「案内かね」
隆一は笑った。
不思議と驚かなかった。
長く生きると。
理屈では説明できないこともあると知る。
だから。
何となく分かった。
この猫について行けば、
何かに会える気がした。
◇
石畳の道。
見知らぬ坂道。
雨の向こう。
琥珀色の灯りが見える。
暖かな光。
冬の夜には眩しいほどの灯りだった。
やがて現れたのは。
古い洋館。
木造の美しい建物。
玄関脇のプレートには、
静かに文字が刻まれている。
夜想館
隆一はその名を口の中で転がした。
「夜想館か」
どこか懐かしい響きだった。
そして。
彼は扉へ手を伸ばす。
からん――
小さなベルが鳴った。
珈琲の香り。
暖炉の温もり。
そして。
「ようこそ」
静かな声が迎える。
その声を聞いた瞬間。
なぜだろう。
隆一はふと思った。
ここでなら。
人生の最後に残した後悔と向き合えるかもしれない。
そんな気がした。
そして。
朔弥はまだ知らない。
この客人が、
百年以上止まった自分の時間を、
ほんの少しだけ動かすことになることを。




