夢の続き
夜更けだった。
客人のいなくなった食堂には静寂が満ちている。
暖炉の火は小さくなり、
赤い熾火だけが残っていた。
窓の外では雨上がりの雫が月明かりを映している。
夜想館は眠らない。
いや。
眠れないのかもしれなかった。
百年もの間。
ずっと。
◇
朔弥は一人で庭に出ていた。
夜風は柔らかい。
春が近づいている。
花壇には小さな芽が顔を出していた。
咲希が好きだった花だ。
名前も覚えている。
植えた場所も。
笑っていた顔も。
全部。
忘れたことなど一度もない。
「不思議ですね」
誰にともなく呟く。
「百年も経ったのに」
思い出だけは古くならない。
むしろ鮮明になっていく。
時折。
昨日のことよりも。
ずっと。
◇
風が吹く。
花壇の芽が揺れた。
その瞬間。
朔弥の脳裏に一つの光景が浮かぶ。
大正時代の庭だった。
春の午後。
咲希がしゃがみ込み、
土に触れている。
恒星はその隣に立っていた。
「また増やしたんですか」
呆れたような朔弥の声。
咲希は振り返る。
いたずらを見つかった子どものように。
「だって綺麗でしょう?」
そう言って笑う。
恒星も笑う。
「咲希は花屋になった方が良かったかもな」
「失礼ですね」
「だって宿の庭より熱心だ」
「恒星さんが手伝わないからです」
「はいはい」
他愛もない会話。
どこにでもある日常。
その時は。
それが失われるものだとは思わなかった。
◇
記憶はそこで途切れる。
朔弥は目を閉じた。
胸が少し痛んだ。
客人たちの物語を見続けていると、
分かることがある。
人生は終わる。
必ず。
誰にでも。
だが。
終わるからこそ美しい。
終わらない者には分からない美しさがある。
朔弥は何度もそれを見てきた。
数え切れないほど。
それでも。
羨ましいと思ってしまう時があった。
限りある時間を生きる人々が。
時折。
眩しく見える。
◇
書斎へ戻る。
本棚には新しい本が並んでいた。
『白石結衣』
夕焼け色の背表紙。
その隣には。
『朝比奈湊』
『佐藤紗希』
それぞれの人生。
それぞれの夢。
それぞれの後悔。
そして。
それぞれの明日。
朔弥は指先で本の背をなぞる。
客人たちは帰っていく。
前へ進むために。
けれど。
自分だけは残る。
ずっと。
ここに。
◇
その時だった。
ぱらり。
静かな音が響く。
題名のない本だった。
誰も触れていない。
それなのに。
勝手にページが開いている。
白紙だったはずの場所に、
淡い文字が浮かんでいた。
朔弥は息を呑む。
これで三度目だった。
最初は。
「待っていて」
次は。
「もうすぐ」
そして今夜。
現れた言葉は。
「夢を見ました」
朔弥の心臓が大きく鳴る。
その文字を見た瞬間。
ある声が脳裏に響いた。
柔らかな声。
懐かしい声。
忘れられるはずのない声。
『ねえ、朔弥さん』
咲希だった。
『私、変な夢を見たんです』
春の縁側。
風に揺れる花。
笑う咲希。
その光景が一瞬だけ蘇る。
朔弥は思わず本へ手を伸ばした。
だが。
文字はすぐ消えてしまう。
白紙へ戻る。
何もなかったかのように。
◇
沈黙が落ちる。
黒猫が本棚の上から見つめている。
金色の瞳は静かだった。
「……夢」
朔弥は小さく呟く。
客人たちは夢を見る。
失ったものに会う夢。
伝えられなかった想いに触れる夢。
未来へ進むための夢。
そして今。
題名のない本もまた、
夢について語り始めている。
まるで。
遠い誰かが、
こちらへ手を伸ばしているかのように。
◇
夜が更けていく。
窓の外では雲が流れていた。
その向こうにある月は見えない。
けれど。
確かにそこにある。
見えなくても。
失われたわけではない。
それは約束も同じなのかもしれなかった。
忘れられたように見えても。
途切れたように見えても。
どこかで続いている。
誰かの心の中で。
誰かの夢の中で。
そして。
まだ名前を持たない物語の中で。
夜想館の時計が静かに時を刻む。
止まっていたはずの運命もまた、
ゆっくりと動き始めていた。
百年越しの夢の続きを見るために。




