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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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35/68

夢の続き

夜更けだった。


 客人のいなくなった食堂には静寂が満ちている。


 暖炉の火は小さくなり、


 赤い熾火だけが残っていた。


 窓の外では雨上がりの雫が月明かりを映している。


 夜想館は眠らない。


 いや。


 眠れないのかもしれなかった。


 百年もの間。


 ずっと。



 朔弥は一人で庭に出ていた。


 夜風は柔らかい。


 春が近づいている。


 花壇には小さな芽が顔を出していた。


 咲希が好きだった花だ。


 名前も覚えている。


 植えた場所も。


 笑っていた顔も。


 全部。


 忘れたことなど一度もない。


「不思議ですね」


 誰にともなく呟く。


「百年も経ったのに」


 思い出だけは古くならない。


 むしろ鮮明になっていく。


 時折。


 昨日のことよりも。


 ずっと。



 風が吹く。


 花壇の芽が揺れた。


 その瞬間。


 朔弥の脳裏に一つの光景が浮かぶ。


 大正時代の庭だった。


 春の午後。


 咲希がしゃがみ込み、


 土に触れている。


 恒星はその隣に立っていた。


「また増やしたんですか」


 呆れたような朔弥の声。


 咲希は振り返る。


 いたずらを見つかった子どものように。


「だって綺麗でしょう?」


 そう言って笑う。


 恒星も笑う。


「咲希は花屋になった方が良かったかもな」


「失礼ですね」


「だって宿の庭より熱心だ」


「恒星さんが手伝わないからです」


「はいはい」


 他愛もない会話。


 どこにでもある日常。


 その時は。


 それが失われるものだとは思わなかった。



 記憶はそこで途切れる。


 朔弥は目を閉じた。


 胸が少し痛んだ。


 客人たちの物語を見続けていると、


 分かることがある。


 人生は終わる。


 必ず。


 誰にでも。


 だが。


 終わるからこそ美しい。


 終わらない者には分からない美しさがある。


 朔弥は何度もそれを見てきた。


 数え切れないほど。


 それでも。


 羨ましいと思ってしまう時があった。


 限りある時間を生きる人々が。


 時折。


 眩しく見える。



 書斎へ戻る。


 本棚には新しい本が並んでいた。


 『白石結衣』


 夕焼け色の背表紙。


 その隣には。


 『朝比奈湊』


 『佐藤紗希』


 それぞれの人生。


 それぞれの夢。


 それぞれの後悔。


 そして。


 それぞれの明日。


 朔弥は指先で本の背をなぞる。


 客人たちは帰っていく。


 前へ進むために。


 けれど。


 自分だけは残る。


 ずっと。


 ここに。



 その時だった。


 ぱらり。


 静かな音が響く。


 題名のない本だった。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 勝手にページが開いている。


 白紙だったはずの場所に、


 淡い文字が浮かんでいた。


 朔弥は息を呑む。


 これで三度目だった。


 最初は。


 「待っていて」


 次は。


 「もうすぐ」


 そして今夜。


 現れた言葉は。


 「夢を見ました」


 朔弥の心臓が大きく鳴る。


 その文字を見た瞬間。


 ある声が脳裏に響いた。


 柔らかな声。


 懐かしい声。


 忘れられるはずのない声。


『ねえ、朔弥さん』


 咲希だった。


『私、変な夢を見たんです』


 春の縁側。


 風に揺れる花。


 笑う咲希。


 その光景が一瞬だけ蘇る。


 朔弥は思わず本へ手を伸ばした。


 だが。


 文字はすぐ消えてしまう。


 白紙へ戻る。


 何もなかったかのように。



 沈黙が落ちる。


 黒猫が本棚の上から見つめている。


 金色の瞳は静かだった。


「……夢」


 朔弥は小さく呟く。


 客人たちは夢を見る。


 失ったものに会う夢。


 伝えられなかった想いに触れる夢。


 未来へ進むための夢。


 そして今。


 題名のない本もまた、


 夢について語り始めている。


 まるで。


 遠い誰かが、


 こちらへ手を伸ばしているかのように。



 夜が更けていく。


 窓の外では雲が流れていた。


 その向こうにある月は見えない。


 けれど。


 確かにそこにある。


 見えなくても。


 失われたわけではない。


 それは約束も同じなのかもしれなかった。


 忘れられたように見えても。


 途切れたように見えても。


 どこかで続いている。


 誰かの心の中で。


 誰かの夢の中で。


 そして。


 まだ名前を持たない物語の中で。


 夜想館の時計が静かに時を刻む。


 止まっていたはずの運命もまた、


 ゆっくりと動き始めていた。


 百年越しの夢の続きを見るために。

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