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夜想館  作者: 灯野 しおん
第五夜

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夕立 ― 白石結衣⑥

カシャッ――


 シャッター音が響く。


 その瞬間。


 港町の景色が光の中へ溶けていった。


 青い海も。


 石畳も。


 若い日の自分も。


 すべてが朝靄のように薄れていく。


「まだ終わってないよ」


 最後に聞こえた言葉だけが胸に残った。



 結衣が目を覚ますと。


 窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。


 雨はすっかり上がっている。


 昨夜の夕立が嘘のような青空だった。


 しばらく天井を見つめる。


 夢だったのだろうか。


 きっと夢だ。


 けれど。


 胸の中には確かなものが残っていた。


 ずっと握りしめていた不安が、


 少しだけ形を変えていた。


 消えたわけではない。


 でも。


 怯えるだけのものではなくなっていた。


「まだ終わってない……か」


 小さく笑う。


 涙が一筋だけ頬を伝った。


 悲しい涙ではなかった。



 朝食の席。


 窓際のテーブルには朝日が降り注いでいた。


 焼きたてのパン。


 季節の果物。


 温かなスープ。


 そして珈琲。


 朔弥はいつも通り静かだった。


 まるで何も知らないように。


 まるで全部知っているように。


「よく眠れましたか」


「はい」


 結衣は頷く。


 そして少し迷ってから言った。


「夢を見ました」


「そうですか」


 朔弥はそれ以上聞かない。


 結衣も詳しく話さない。


 それで十分だった。


 しばらくして。


 結衣は窓の外を見ながら呟いた。


「私、勘違いしてました」


 朔弥は黙って耳を傾ける。


「夢を叶えるって」


「職業になることだと思ってました」


 珈琲の湯気が揺れる。


「でも違ったみたいです」


 結衣は笑った。


 昨夜よりずっと自然な笑顔だった。


「写真を撮ることが好きだったんです」


 ただそれだけ。


 単純なことだった。


 なのに。


 長い間忘れていた。


「結婚したら終わると思ってました」


「夢も」


「自由も」


 そこで首を振る。


「違いました」


 人生は一本道じゃない。


 どちらか一つしか選べないわけじゃない。


 旅もできる。


 写真も撮れる。


 家庭も築ける。


 形は変わるかもしれない。


 でも。


 終わるわけではない。


 朔弥は静かに微笑んだ。


「未来は案外、広いものです」


 その言葉に。


 結衣は深く頷いた。



 出発の時間。


 玄関には朝の風が吹いていた。


 結衣は鞄から一冊の本を取り出す。


 写真集だった。


 角が少し擦れている。


 何度も開いた証拠だ。


「宿代です」


 朔弥が受け取る。


「大切な本ですね」


「昔の私の宝物です」


 少し考えて。


「今も、かな」


 そう言って笑った。


 今度は迷いのない笑顔だった。



 玄関の外へ出る。


 空はどこまでも青い。


 結衣はスマートフォンを取り出した。


 優斗からメッセージが来ている。


『昨日大丈夫だった?』


『今夜電話できる?』


 結衣は画面を見つめる。


 そして。


 新しくメッセージを打ち始めた。


『今度、一緒に旅行しない?』


 一度消して。


 もう一度打つ。


『私ね、行きたい場所がたくさんあるの』


 送信。


 数秒後。


 返信が来る。


『いいね』


『どこ行く?』


 思わず笑ってしまう。


 涙が出るほど。


 優しい返事だった。



 結衣の姿が見えなくなるまで。


 朔弥は玄関に立っていた。


 黒猫が足元へ来る。


「良い顔でしたね」


 黒猫は静かに尻尾を揺らす。


 書斎へ戻る。


 本棚には新しい一冊が並んでいた。


 『白石結衣』


 その背表紙は柔らかな夕焼け色に見えた。


 そして。


 その奥。


 題名のない本。


 朔弥の視線が止まる。


 ふと。


 表紙に触れる。


 冷たい。


 いつも通り。


 だが。


 ほんの一瞬だけ。


 どこか遠くから女性の笑い声が聞こえた気がした。


 優しく。


 懐かしい声。


 朔弥は目を閉じる。


 そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「もう少しだけ、待っていてください」


 その言葉は。


 未来へ向けたものなのか。


 過去へ向けたものなのか。


 まだ誰にも分からなかった。

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