夕立 ― 白石結衣⑥
カシャッ――
シャッター音が響く。
その瞬間。
港町の景色が光の中へ溶けていった。
青い海も。
石畳も。
若い日の自分も。
すべてが朝靄のように薄れていく。
「まだ終わってないよ」
最後に聞こえた言葉だけが胸に残った。
◇
結衣が目を覚ますと。
窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。
雨はすっかり上がっている。
昨夜の夕立が嘘のような青空だった。
しばらく天井を見つめる。
夢だったのだろうか。
きっと夢だ。
けれど。
胸の中には確かなものが残っていた。
ずっと握りしめていた不安が、
少しだけ形を変えていた。
消えたわけではない。
でも。
怯えるだけのものではなくなっていた。
「まだ終わってない……か」
小さく笑う。
涙が一筋だけ頬を伝った。
悲しい涙ではなかった。
◇
朝食の席。
窓際のテーブルには朝日が降り注いでいた。
焼きたてのパン。
季節の果物。
温かなスープ。
そして珈琲。
朔弥はいつも通り静かだった。
まるで何も知らないように。
まるで全部知っているように。
「よく眠れましたか」
「はい」
結衣は頷く。
そして少し迷ってから言った。
「夢を見ました」
「そうですか」
朔弥はそれ以上聞かない。
結衣も詳しく話さない。
それで十分だった。
しばらくして。
結衣は窓の外を見ながら呟いた。
「私、勘違いしてました」
朔弥は黙って耳を傾ける。
「夢を叶えるって」
「職業になることだと思ってました」
珈琲の湯気が揺れる。
「でも違ったみたいです」
結衣は笑った。
昨夜よりずっと自然な笑顔だった。
「写真を撮ることが好きだったんです」
ただそれだけ。
単純なことだった。
なのに。
長い間忘れていた。
「結婚したら終わると思ってました」
「夢も」
「自由も」
そこで首を振る。
「違いました」
人生は一本道じゃない。
どちらか一つしか選べないわけじゃない。
旅もできる。
写真も撮れる。
家庭も築ける。
形は変わるかもしれない。
でも。
終わるわけではない。
朔弥は静かに微笑んだ。
「未来は案外、広いものです」
その言葉に。
結衣は深く頷いた。
◇
出発の時間。
玄関には朝の風が吹いていた。
結衣は鞄から一冊の本を取り出す。
写真集だった。
角が少し擦れている。
何度も開いた証拠だ。
「宿代です」
朔弥が受け取る。
「大切な本ですね」
「昔の私の宝物です」
少し考えて。
「今も、かな」
そう言って笑った。
今度は迷いのない笑顔だった。
◇
玄関の外へ出る。
空はどこまでも青い。
結衣はスマートフォンを取り出した。
優斗からメッセージが来ている。
『昨日大丈夫だった?』
『今夜電話できる?』
結衣は画面を見つめる。
そして。
新しくメッセージを打ち始めた。
『今度、一緒に旅行しない?』
一度消して。
もう一度打つ。
『私ね、行きたい場所がたくさんあるの』
送信。
数秒後。
返信が来る。
『いいね』
『どこ行く?』
思わず笑ってしまう。
涙が出るほど。
優しい返事だった。
◇
結衣の姿が見えなくなるまで。
朔弥は玄関に立っていた。
黒猫が足元へ来る。
「良い顔でしたね」
黒猫は静かに尻尾を揺らす。
書斎へ戻る。
本棚には新しい一冊が並んでいた。
『白石結衣』
その背表紙は柔らかな夕焼け色に見えた。
そして。
その奥。
題名のない本。
朔弥の視線が止まる。
ふと。
表紙に触れる。
冷たい。
いつも通り。
だが。
ほんの一瞬だけ。
どこか遠くから女性の笑い声が聞こえた気がした。
優しく。
懐かしい声。
朔弥は目を閉じる。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「もう少しだけ、待っていてください」
その言葉は。
未来へ向けたものなのか。
過去へ向けたものなのか。
まだ誰にも分からなかった。




