夕立 ― 白石結衣⑤
波の音が聞こえる。
潮風が頬を撫でる。
結衣はゆっくりと目を開いた。
そこは海辺だった。
青い空。
白い雲。
石畳の続く港町。
遠くで鐘の音が鳴っている。
「ここ……」
知っている。
忘れるはずがない。
大学二年の春。
一人旅で訪れた小さな港町だった。
結衣は周囲を見回す。
懐かしい景色。
懐かしい匂い。
胸が締め付けられる。
すると。
前方の広場に一人の女性が立っていた。
首からカメラを下げている。
髪を風になびかせながら。
楽しそうに街を見つめている。
その姿を見た瞬間。
結衣は息を呑んだ。
「……私」
そこにいたのは。
二十歳の頃の自分だった。
◇
若い結衣は気づかない。
夢中で写真を撮っている。
市場のおばあさん。
花を売る少女。
路地を走る猫。
一枚一枚。
宝物を集めるみたいに。
シャッターを切っている。
その顔は輝いていた。
不安もある。
お金もない。
将来だって分からない。
それでも。
楽しそうだった。
心から。
生きることを楽しんでいた。
結衣は少し離れた場所から見つめる。
眩しかった。
同時に苦しかった。
あの頃の自分に。
戻れないから。
「ごめんね」
思わず口に出る。
「約束守れなかった」
夢を叶える。
世界を旅する。
写真で生きる。
あの日の自分は本気だった。
でも。
結局できなかった。
そう思っていた。
その時だった。
若い結衣が振り返った。
まるで声が聞こえたみたいに。
真っ直ぐこちらを見る。
そして。
笑った。
「何で謝るの?」
結衣の心臓が跳ねる。
「だって私は――」
「結婚するんでしょ?」
結衣は言葉を失う。
若い結衣は近づいてくる。
昔と同じ笑顔で。
「好きな人がいるんでしょ?」
「……いる」
「幸せ?」
すぐには答えられなかった。
けれど。
「うん」
その答えは本当だった。
優斗といる時間は幸せだった。
穏やかで。
温かくて。
大切だった。
若い結衣は満足そうに頷く。
「じゃあ良かった」
「でも夢は」
結衣の声が震える。
「写真家にはなれなかった」
若い結衣は首を傾げた。
不思議そうに。
「誰が決めたの?」
結衣は黙る。
「まだ生きてるのに?」
風が吹く。
海の匂い。
遠くでカモメが鳴く。
「私ね」
若い結衣はカメラを持ち上げる。
「写真家になりたいんじゃないの」
笑う。
「写真を撮りたいの」
その言葉は。
稲妻みたいに胸へ落ちた。
結衣は立ち尽くす。
そうだった。
賞を取るためじゃない。
有名になるためじゃない。
職業の名前が欲しかったわけじゃない。
ただ。
好きだった。
景色を撮ることが。
人の笑顔を残すことが。
旅をすることが。
それだけだった。
それなのに。
いつの間にか。
夢を職業にできなかった自分を、
失敗した人間だと思い込んでいた。
若い結衣は微笑む。
「まだ終わってないよ」
そう言って。
シャッターを切った。
カシャッ。
眩しい光が広がる。
世界が白く染まる。
波の音が遠ざかる。
そして。
結衣は静かな朝へと導かれていった。




