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夜想館  作者: 灯野 しおん
第五夜

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33/68

夕立 ― 白石結衣⑤

 波の音が聞こえる。

 潮風が頬を撫でる。


 結衣はゆっくりと目を開いた。

 そこは海辺だった。


 青い空。

 白い雲。

 石畳の続く港町。

 遠くで鐘の音が鳴っている。


「ここ……」

 知っている。

 忘れるはずがない。


 大学二年の春。

 一人旅で訪れた小さな港町だった。


 結衣は周囲を見回す。

 懐かしい景色。

 懐かしい匂い。

 胸が締め付けられる。


 すると。

 前方の広場に一人の女性が立っていた。


 首からカメラを下げている。

 髪を風になびかせながら。

 楽しそうに街を見つめている。


 その姿を見た瞬間。

 結衣は息を呑んだ。

「……私」


 そこにいたのは。

 二十歳の頃の自分だった。



 若い結衣は気づかない。

 夢中で写真を撮っている。


 市場のおばあさん。

 花を売る少女。

 路地を走る猫。

 一枚一枚。


 宝物を集めるみたいに。

 シャッターを切っている。


 その顔は輝いていた。


 不安もある。

 お金もない。

 将来だって分からない。

 それでも。


 楽しそうだった。

 心から。

 生きることを楽しんでいた。


 結衣は少し離れた場所から見つめる。

 眩しかった。


 同時に苦しかった。

 あの頃の自分に。

 戻れないから。

「ごめんね」


 思わず口に出る。

「約束守れなかった」


 夢を叶える。

 世界を旅する。

 写真で生きる。

 あの日の自分は本気だった。


 でも。

 結局できなかった。

 そう思っていた。


 その時だった。

 若い結衣が振り返った。

 まるで声が聞こえたみたいに。

 真っ直ぐこちらを見る。


 そして。

 笑った。

「何で謝るの?」


 結衣の心臓が跳ねる。

「だって私は――」

「結婚するんでしょ?」


 結衣は言葉を失う。

 若い結衣は近づいてくる。

 昔と同じ笑顔で。


「好きな人がいるんでしょ?」

「……いる」

「幸せ?」


 すぐには答えられなかった。


 けれど。

「うん」

 その答えは本当だった。


 優斗といる時間は幸せだった。

 穏やかで。

 温かくて。

 大切だった。


 若い結衣は満足そうに頷く。

「じゃあ良かった」


「でも夢は」

 結衣の声が震える。

「写真家にはなれなかった」


 若い結衣は首を傾げた。

 不思議そうに。

「誰が決めたの?」


 結衣は黙る。

「まだ生きてるのに?」


 風が吹く。

 海の匂い。

 遠くでカモメが鳴く。


「私ね」

 若い結衣はカメラを持ち上げる。


「写真家になりたいんじゃないの」

 笑う。

「写真を撮りたいの」


 その言葉は。

 稲妻みたいに胸へ落ちた。


 結衣は立ち尽くす。

 そうだった。

 賞を取るためじゃない。

 有名になるためじゃない。

 職業の名前が欲しかったわけじゃない。


 ただ。

 好きだった。


 景色を撮ることが。

 人の笑顔を残すことが。

 旅をすることが。

 それだけだった。


 それなのに。

 いつの間にか。

 夢を職業にできなかった自分を、

 失敗した人間だと思い込んでいた。


 若い結衣は微笑む。

「まだ終わってないよ」


 そう言って。

 シャッターを切った。

 カシャッ。


 眩しい光が広がる。

 世界が白く染まる。

 波の音が遠ざかる。


 そして。

 結衣は静かな朝へと導かれていった。

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