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夜想館  作者: 灯野 しおん
第五夜

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32/68

夕立 ― 白石結衣④

夕食の時間になった。


 食堂には柔らかな灯りが満ちている。

 窓の外では雨上がりの庭が静かに輝いていた。


 結衣は席に着く。


 そして運ばれてきた料理を見て、思わず目を見開いた。

「え……」


 色鮮やかな野菜。

 香草の香りがするスープ。

 小さなキッシュ。

 焼きたてのパン。

 そしてデザートには果物のタルト。


 どれも見覚えがあった。


 いや、

 料理そのものではない。


 景色だ。


 大学時代。

 旅先で立ち寄った小さなカフェ。

 フランスの片田舎。

 石造りの古い店。

 そこで食べた昼食にそっくりだった。


 結衣は言葉を失う。


「お気に召しませんでしたか?」

 朔弥が尋ねる。


「いえ……」

 首を横に振る。


「ただ、驚いて」

 どうして知っているのだろう。

 誰にも話したことのない思い出なのに。


 結衣はスープを一口飲む。

 温かい。

 胸の奥まで染み込む。


 その瞬間だった。

 懐かしい匂い。

 懐かしい光。

 遠い日の記憶が蘇る。



 二十歳の頃。

 結衣は一人で旅をしていた。


 お金なんてほとんどない。

 安い宿を探して歩き回り。

 地図を片手に知らない街を巡った。


 毎日が冒険だった。


 不安もあった。

 でも。

 楽しかった。


 心から。

 生きていると感じていた。


 カメラを構える。

 夕暮れの広場。

 市場の笑顔。

 石畳を走る子どもたち。

 何気ない景色が宝物だった。


 その時の自分は信じていた。

 いつか。

 写真で生きていくのだと。



 結衣は食事の手を止める。


 気づけば涙が一滴落ちていた。

「どうして……」

 呟く。


「忘れてたのに」

 忘れたつもりだった。


 諦めたつもりだった。

 大人になるとはそういうことだと。

 思い込んでいた。


 朔弥は静かに聞いている。


「夢でした」

 結衣は言う。

「でも現実的じゃなかった」

「才能もなかったし」

「生活もあるし」


 言葉を重ねるたび。

 まるで自分に言い聞かせているようだった。


 朔弥は少し考える。


 そして。

「本当にそうでしょうか」

 静かに尋ねた。


 結衣は顔を上げる。

「え?」


「諦めたことと」

 朔弥は続ける。

「選ばなかったことは、同じではありません」


 食堂が静かになる。

 暖炉の薪が小さく弾けた。


「夢を捨てた人の顔ではないと思いました」


 結衣は何も言えない。

 胸が痛い。


 図星だった。

 もし本当に諦めていたなら。

 結婚が怖くなることもなかった。

 夢はもう終わったものだから。


 けれど。

 終わっていなかった。

 心のどこかで。

 まだ続いていた。



 その夜。

 結衣は客室の窓辺に立っていた。


 雨は止んでいる。

 雲の切れ間から月が見える。

 静かな夜だった。


 ベッドへ入る。

 目を閉じる。


 すると。

 遠くで波の音が聞こえた。

 寄せては返す波。

 潮の香り。

 風。


 そして。

 誰かの笑い声。


 懐かしい。

 とても懐かしい。


 結衣の意識はゆっくりと沈んでいく。


 夢の中へ。


 置いてきたと思っていた、

 あの日の自分が待つ場所へ。

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