夕立 ― 白石結衣④
夕食の時間になった。
食堂には柔らかな灯りが満ちている。
窓の外では雨上がりの庭が静かに輝いていた。
結衣は席に着く。
そして運ばれてきた料理を見て、思わず目を見開いた。
「え……」
色鮮やかな野菜。
香草の香りがするスープ。
小さなキッシュ。
焼きたてのパン。
そしてデザートには果物のタルト。
どれも見覚えがあった。
いや、
料理そのものではない。
景色だ。
大学時代。
旅先で立ち寄った小さなカフェ。
フランスの片田舎。
石造りの古い店。
そこで食べた昼食にそっくりだった。
結衣は言葉を失う。
「お気に召しませんでしたか?」
朔弥が尋ねる。
「いえ……」
首を横に振る。
「ただ、驚いて」
どうして知っているのだろう。
誰にも話したことのない思い出なのに。
結衣はスープを一口飲む。
温かい。
胸の奥まで染み込む。
その瞬間だった。
懐かしい匂い。
懐かしい光。
遠い日の記憶が蘇る。
◇
二十歳の頃。
結衣は一人で旅をしていた。
お金なんてほとんどない。
安い宿を探して歩き回り。
地図を片手に知らない街を巡った。
毎日が冒険だった。
不安もあった。
でも。
楽しかった。
心から。
生きていると感じていた。
カメラを構える。
夕暮れの広場。
市場の笑顔。
石畳を走る子どもたち。
何気ない景色が宝物だった。
その時の自分は信じていた。
いつか。
写真で生きていくのだと。
◇
結衣は食事の手を止める。
気づけば涙が一滴落ちていた。
「どうして……」
呟く。
「忘れてたのに」
忘れたつもりだった。
諦めたつもりだった。
大人になるとはそういうことだと。
思い込んでいた。
朔弥は静かに聞いている。
「夢でした」
結衣は言う。
「でも現実的じゃなかった」
「才能もなかったし」
「生活もあるし」
言葉を重ねるたび。
まるで自分に言い聞かせているようだった。
朔弥は少し考える。
そして。
「本当にそうでしょうか」
静かに尋ねた。
結衣は顔を上げる。
「え?」
「諦めたことと」
朔弥は続ける。
「選ばなかったことは、同じではありません」
食堂が静かになる。
暖炉の薪が小さく弾けた。
「夢を捨てた人の顔ではないと思いました」
結衣は何も言えない。
胸が痛い。
図星だった。
もし本当に諦めていたなら。
結婚が怖くなることもなかった。
夢はもう終わったものだから。
けれど。
終わっていなかった。
心のどこかで。
まだ続いていた。
◇
その夜。
結衣は客室の窓辺に立っていた。
雨は止んでいる。
雲の切れ間から月が見える。
静かな夜だった。
ベッドへ入る。
目を閉じる。
すると。
遠くで波の音が聞こえた。
寄せては返す波。
潮の香り。
風。
そして。
誰かの笑い声。
懐かしい。
とても懐かしい。
結衣の意識はゆっくりと沈んでいく。
夢の中へ。
置いてきたと思っていた、
あの日の自分が待つ場所へ。




