夕立 ― 白石結衣③
「ようこそ」
暖かな灯りの中で、青年が微笑んでいた。
白いシャツ。
黒いベスト。
落ち着いた物腰。
初めて会うはずなのに。
なぜか安心する。
「雨、大丈夫でしたか」
柔らかな声だった。
結衣は少しだけ肩の力が抜ける。
「はい……たぶん」
自分でも曖昧な返事だと思った。
朔弥はそれを気にした様子もない。
「温かいお茶をご用意します」
そう言って奥へ向かう。
結衣はロビーを見回した。
暖炉。
古時計。
本棚。
柔らかなランプの灯り。
時間の流れが外とは違う気がする。
スマートフォンを取り出す。
時刻を確認しようとして。
手が止まった。
優斗からメッセージが来ていた。
『雨大丈夫?』
『駅まで迎えに行こうか?』
『連絡してね』
優しい。
本当に優しい人だ。
その文字を見ているだけで分かる。
それなのに。
結衣の胸は少し痛んだ。
「どうしてだろう……」
小さく呟く。
好きなのだ。
嫌いになったわけじゃない。
結婚したくないわけでもない。
でも。
何かが違う。
何かを置いてきてしまった気がする。
◇
宿帳が開かれる。
結衣は名前を書く。
白石 結衣。
万年筆のインクが紙へ染み込む。
その瞬間。
どこか遠くで波の音が聞こえた気がした。
「?」
顔を上げる。
もちろん波などない。
夜想館は山の中にあるはずだ。
だが。
胸の奥に懐かしい景色が広がる。
青い海。
異国の街並み。
首から下げたカメラ。
旅をしていた頃の自分。
自由だった頃の自分。
結衣は思わず目を伏せた。
その様子を見た朔弥は何も聞かない。
ただ。
「夕食までお時間があります」
静かに言った。
「よろしければ庭をご覧になりますか」
◇
夜想館の庭は雨に濡れていた。
紫陽花が咲いている。
雨粒をまといながら。
青や紫の花が静かに揺れていた。
結衣は石畳を歩く。
傘はいらない。
雨はいつの間にか止んでいた。
その時。
黒猫が現れた。
例の金色の瞳の猫だった。
「あなたが連れてきたの?」
猫は答えない。
当然だ。
だが。
結衣の隣を歩き始めた。
まるで散歩の相手をするように。
しばらく歩いていると。
庭の奥に小さな東屋が見えた。
そこには古い木製のベンチが置かれている。
結衣は腰を下ろした。
そして空を見上げた。
雲の切れ間から薄い月明かりが覗いている。
「私ね」
なぜだろう。
猫に話しかけていた。
「写真家になりたかったの」
黒猫は静かに座っている。
「本気だったんだよ」
声が少し震える。
「世界中を旅して」
「いろんな景色を撮って」
「そうやって生きていくんだって思ってた」
夜風が吹く。
紫陽花が揺れる。
「でも」
結衣は笑った。
少し寂しそうに。
「そんなの無理だった」
就職して。
生活して。
現実を知った。
夢は夢だった。
そう思っていた。
けれど。
「結婚が決まったら」
結衣は手を握りしめる。
「急に怖くなったの」
未来が。
幸せなはずの未来が。
なぜか怖かった。
その時。
黒猫がふいに立ち上がった。
そして。
夜想館の二階を見上げる。
書斎の窓。
そこには朔弥の姿があった。
結衣には気づいていない。
ただ。
窓辺に立ち、
遠くを見つめている。
どこか。
とても遠い未来を。
あるいは。
失われた過去を見ているように。
結衣は知らない。
あの人もまた。
未来へ進めずにいる一人なのだということを。
そして今夜。
結衣は夢を諦めた自分と向き合うことになる。
未来へ進むために。




