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夜想館  作者: 灯野 しおん
第五夜

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夕立 ― 白石結衣③

 「ようこそ」


 暖かな灯りの中で、青年が微笑んでいた。


 白いシャツ。


 黒いベスト。


 落ち着いた物腰。


 初めて会うはずなのに。


 なぜか安心する。


「雨、大丈夫でしたか」


 柔らかな声だった。


 結衣は少しだけ肩の力が抜ける。


「はい……たぶん」


 自分でも曖昧な返事だと思った。


 朔弥はそれを気にした様子もない。


「温かいお茶をご用意します」


 そう言って奥へ向かう。


 結衣はロビーを見回した。


 暖炉。


 古時計。


 本棚。


 柔らかなランプの灯り。


 時間の流れが外とは違う気がする。


 スマートフォンを取り出す。


 時刻を確認しようとして。


 手が止まった。


 優斗からメッセージが来ていた。


『雨大丈夫?』


『駅まで迎えに行こうか?』


『連絡してね』


 優しい。


 本当に優しい人だ。


 その文字を見ているだけで分かる。


 それなのに。


 結衣の胸は少し痛んだ。


「どうしてだろう……」


 小さく呟く。


 好きなのだ。


 嫌いになったわけじゃない。


 結婚したくないわけでもない。


 でも。


 何かが違う。


 何かを置いてきてしまった気がする。



 宿帳が開かれる。


 結衣は名前を書く。


 白石 結衣。


 万年筆のインクが紙へ染み込む。


 その瞬間。


 どこか遠くで波の音が聞こえた気がした。


「?」


 顔を上げる。


 もちろん波などない。


 夜想館は山の中にあるはずだ。


 だが。


 胸の奥に懐かしい景色が広がる。


 青い海。


 異国の街並み。


 首から下げたカメラ。


 旅をしていた頃の自分。


 自由だった頃の自分。


 結衣は思わず目を伏せた。


 その様子を見た朔弥は何も聞かない。


 ただ。


「夕食までお時間があります」


 静かに言った。


「よろしければ庭をご覧になりますか」



 夜想館の庭は雨に濡れていた。


 紫陽花が咲いている。


 雨粒をまといながら。


 青や紫の花が静かに揺れていた。


 結衣は石畳を歩く。


 傘はいらない。


 雨はいつの間にか止んでいた。


 その時。


 黒猫が現れた。


 例の金色の瞳の猫だった。


「あなたが連れてきたの?」


 猫は答えない。


 当然だ。


 だが。


 結衣の隣を歩き始めた。


 まるで散歩の相手をするように。


 しばらく歩いていると。


 庭の奥に小さな東屋が見えた。


 そこには古い木製のベンチが置かれている。


 結衣は腰を下ろした。


 そして空を見上げた。


 雲の切れ間から薄い月明かりが覗いている。


「私ね」


 なぜだろう。


 猫に話しかけていた。


「写真家になりたかったの」


 黒猫は静かに座っている。


「本気だったんだよ」


 声が少し震える。


「世界中を旅して」


「いろんな景色を撮って」


「そうやって生きていくんだって思ってた」


 夜風が吹く。


 紫陽花が揺れる。


「でも」


 結衣は笑った。


 少し寂しそうに。


「そんなの無理だった」


 就職して。


 生活して。


 現実を知った。


 夢は夢だった。


 そう思っていた。


 けれど。


「結婚が決まったら」


 結衣は手を握りしめる。


「急に怖くなったの」


 未来が。


 幸せなはずの未来が。


 なぜか怖かった。


 その時。


 黒猫がふいに立ち上がった。


 そして。


 夜想館の二階を見上げる。


 書斎の窓。


 そこには朔弥の姿があった。


 結衣には気づいていない。


 ただ。


 窓辺に立ち、


 遠くを見つめている。


 どこか。


 とても遠い未来を。


 あるいは。


 失われた過去を見ているように。


 結衣は知らない。


 あの人もまた。


 未来へ進めずにいる一人なのだということを。


 そして今夜。


 結衣は夢を諦めた自分と向き合うことになる。


 未来へ進むために。

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