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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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28/68

題名のない本

神崎蓮が去ったあと。


 夜想館には静かな朝が訪れていた。


 窓から差し込む陽光。


 暖炉の火は消え。


 珈琲の香りだけが残っている。


 朔弥は書斎にいた。


 手には一冊の本。


 深い藍色の表紙。


 何もなかった背表紙へ、


 ゆっくりと文字が浮かび上がる。


 『神崎 蓮』


 朔弥は本棚へ戻した。


 その隣には。


 『雨宮紗希』


 『柊千夏』


 『朝比奈湊』


 そして今、


 『神崎蓮』


 四冊の人生が並ぶ。


 どれも一晩だけの物語。


 けれど。


 その人にとっては、


 一生を変えるかもしれない夜だった。


「増えましたね」


 朔弥が呟く。


 黒猫が本棚の上から見下ろしている。


 返事はない。


 けれど。


 金色の瞳はどこか穏やかだった。


 朔弥は視線を移す。


 本棚の一番奥。


 そこだけぽっかりと空気が違う。


 一冊の本。


 何も書かれていない本。


 題名のない本。


 朔弥はそっと手を伸ばした。


 指先が表紙に触れる。


 冷たい。


 昔から変わらない。


 百年以上。


 ずっと。


「まだですか」


 誰に向けた言葉でもない。


 独り言。


 けれど。


 その時だった。


 ぱらり。


 風もないのに。


 本のページが一枚だけめくれた。


 朔弥の目が見開かれる。


 今までそんなことはなかった。


 白紙だったページ。


 そこに。


 ほんの一瞬だけ。


 文字が浮かんだ気がした。


 かすれて。


 読めないほど小さく。


 けれど確かに。


 誰かの名前。


「……恒星?」


 次の瞬間。


 文字は消えていた。


 白紙。


 何もない。


 夢だったのかと思うほど。


 けれど。


 黒猫が珍しく立ち上がっていた。


 そして本を見ている。


 じっと。


 長い間。


 朔弥の胸が小さく鳴る。


 百年以上。


 止まっていた何かが。


 ほんの少しだけ動いた気がした。



 その日の夕方。


 空は曇っていた。


 雨の匂いがする。


 新月が近い。


 夜想館が最も客を迎える夜。


 朔弥は玄関脇のランプへ火を灯す。


 琥珀色の光。


 いつもの準備。


 いつもの夜。


 そのはずだった。


 しかし。


 黒猫が突然玄関へ向かった。


 そして扉の前で座り込む。


 動かない。


「どうしました?」


 朔弥が声を掛ける。


 黒猫は答えない。


 ただ。


 玄関の向こうを見ている。


 誰かを待つように。


 あるいは。


 何かを知っているように。


 やがて。


 遠くで雨が降り始めた。


 時雨ではない。


 もっと冷たく。


 もっと静かな雨。


 そして。


 まだ姿は見えない。


 けれど次の客人は、


 今までとは少し違う夜を運んで来ようとしていた。

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