時雨 ― 神崎蓮⑥
「ありがとうな」
父の声が消える。
夕暮れの病室も。
窓から差し込む光も。
すべてが白く溶けていく。
蓮は手を伸ばした。
間に合わないと分かっていても。
届かないと分かっていても。
「親父!」
叫ぶ。
何年も言えなかった呼び方だった。
父の姿はもうない。
それでも。
胸の奥に残るものがあった。
温かく。
少し苦しくて。
涙が出るほど優しいもの。
◇
目を覚ます。
窓の外は薄青く明るくなっていた。
夢だった。
そう思う。
けれど。
ただの夢ではなかった。
頬が濡れている。
蓮は静かに目を閉じた。
「会いたかったな」
ぽつりと呟く。
父に。
最後に一度だけ。
会いたかった。
怒鳴るためじゃない。
責めるためでもない。
ただ。
話をしたかった。
それだけだった。
◇
朝食の時間。
食堂には柔らかな朝日が差し込んでいた。
雨は止んでいる。
窓の外の庭には小さな水滴が光っていた。
テーブルには。
焼きたてのパン。
ふわりと湯気の立つ卵料理。
新鮮なサラダ。
そして。
サイフォンで淹れた珈琲。
夜想館の朝はいつも同じ。
誰の過去にも引きずられない。
だから優しい。
蓮は珈琲の香りを吸い込む。
「良い香りですね」
自然と口から出た。
「ありがとうございます」
朔弥が微笑む。
しばらく静かな時間が流れる。
やがて。
「父に会いました」
蓮が言う。
朔弥は頷く。
驚かない。
まるで最初から知っていたみたいに。
「そうですか」
「変な話ですよね」
蓮は苦笑する。
「謝りたかったのかと思ってました」
珈琲を見つめる。
「でも違いました」
湯気が揺れる。
「会いたかっただけでした」
その言葉を言えた瞬間。
胸の中で何かがほどけた。
朔弥は静かに聞いている。
「許せたわけじゃありません」
蓮は正直に言う。
「嫌だったこともあります」
「今でも納得できないこともあります」
それでも。
「でも」
少し笑う。
「父も父なりに必死だったんでしょうね」
朔弥は小さく頷いた。
「きっとそうだったのでしょう」
◇
朝食を終える。
旅立ちの時間が来る。
蓮は鞄から一冊の本を取り出した。
古い文庫本だった。
何度も読んだ跡がある。
「宿代です」
朔弥が丁寧に受け取る。
「大切な本ですね」
「父からもらった本です」
言ってから。
蓮は少し驚いた。
今まで人にそう説明したことがなかった。
父の話を避けていたから。
けれど今は違う。
「昔は嫌でした」
「趣味を押し付けられた気がして」
苦笑する。
「でも気づいたら何度も読んでました」
朔弥の目が少し柔らかくなる。
「良い贈り物ですね」
蓮は頷いた。
心から。
「ええ」
◇
玄関の扉が開く。
空は晴れていた。
時雨はどこかへ消えている。
青空が広がっていた。
蓮は振り返る。
夜想館。
暖かな灯り。
静かな宿。
そして。
見送る朔弥。
「行ってらっしゃいませ」
いつもの言葉。
けれど。
今は少し違って聞こえた。
蓮は頭を下げる。
「ありがとうございました」
それは宿への礼だけではなかった。
父へ。
そして。
もう一度人生へ向き合う自分自身へ向けた言葉でもあった。
歩き出す。
青空の下へ。
家族の待つ場所へ。
未来へ。
その背中を見送りながら。
黒猫が朔弥の足元へ来る。
金色の瞳が見上げる。
朔弥は小さく笑った。
「少し軽くなった顔でしたね」
黒猫は静かに目を細める。
そして二人は館の中へ戻っていく。
書斎の本棚には。
新しい一冊が加わることになる。
その背表紙には。
『神崎 蓮』
と刻まれていた。
そしてその奥。
誰にも読まれていない一冊の本が、
今日も静かに眠っていた。
いつか。
その物語が開かれる日を待ちながら。
◇
雨は上がった。
けれど人の心には、すぐには晴れない空もある。
それでも夜想館を訪れた人々は、少しだけ軽くなった荷物を抱えて、また未来へ歩いていくのだった。




