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夜想館  作者: 灯野 しおん
第四夜

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27/68

時雨 ― 神崎蓮⑥

「ありがとうな」


 父の声が消える。


 夕暮れの病室も。


 窓から差し込む光も。


 すべてが白く溶けていく。


 蓮は手を伸ばした。


 間に合わないと分かっていても。


 届かないと分かっていても。


「親父!」


 叫ぶ。


 何年も言えなかった呼び方だった。


 父の姿はもうない。


 それでも。


 胸の奥に残るものがあった。


 温かく。


 少し苦しくて。


 涙が出るほど優しいもの。



 目を覚ます。


 窓の外は薄青く明るくなっていた。


 夢だった。


 そう思う。


 けれど。


 ただの夢ではなかった。


 頬が濡れている。


 蓮は静かに目を閉じた。


「会いたかったな」


 ぽつりと呟く。


 父に。


 最後に一度だけ。


 会いたかった。


 怒鳴るためじゃない。


 責めるためでもない。


 ただ。


 話をしたかった。


 それだけだった。



 朝食の時間。


 食堂には柔らかな朝日が差し込んでいた。


 雨は止んでいる。


 窓の外の庭には小さな水滴が光っていた。


 テーブルには。


 焼きたてのパン。


 ふわりと湯気の立つ卵料理。


 新鮮なサラダ。


 そして。


 サイフォンで淹れた珈琲。


 夜想館の朝はいつも同じ。


 誰の過去にも引きずられない。


 だから優しい。


 蓮は珈琲の香りを吸い込む。


「良い香りですね」


 自然と口から出た。


「ありがとうございます」


 朔弥が微笑む。


 しばらく静かな時間が流れる。


 やがて。


「父に会いました」


 蓮が言う。


 朔弥は頷く。


 驚かない。


 まるで最初から知っていたみたいに。


「そうですか」


「変な話ですよね」


 蓮は苦笑する。


「謝りたかったのかと思ってました」


 珈琲を見つめる。


「でも違いました」


 湯気が揺れる。


「会いたかっただけでした」


 その言葉を言えた瞬間。


 胸の中で何かがほどけた。


 朔弥は静かに聞いている。


「許せたわけじゃありません」


 蓮は正直に言う。


「嫌だったこともあります」


「今でも納得できないこともあります」


 それでも。


「でも」


 少し笑う。


「父も父なりに必死だったんでしょうね」


 朔弥は小さく頷いた。


「きっとそうだったのでしょう」



 朝食を終える。


 旅立ちの時間が来る。


 蓮は鞄から一冊の本を取り出した。


 古い文庫本だった。


 何度も読んだ跡がある。


「宿代です」


 朔弥が丁寧に受け取る。


「大切な本ですね」


「父からもらった本です」


 言ってから。


 蓮は少し驚いた。


 今まで人にそう説明したことがなかった。


 父の話を避けていたから。


 けれど今は違う。


「昔は嫌でした」


「趣味を押し付けられた気がして」


 苦笑する。


「でも気づいたら何度も読んでました」


 朔弥の目が少し柔らかくなる。


「良い贈り物ですね」


 蓮は頷いた。


 心から。


「ええ」



 玄関の扉が開く。


 空は晴れていた。


 時雨はどこかへ消えている。


 青空が広がっていた。


 蓮は振り返る。


 夜想館。


 暖かな灯り。


 静かな宿。


 そして。


 見送る朔弥。


「行ってらっしゃいませ」


 いつもの言葉。


 けれど。


 今は少し違って聞こえた。


 蓮は頭を下げる。


「ありがとうございました」


 それは宿への礼だけではなかった。


 父へ。


 そして。


 もう一度人生へ向き合う自分自身へ向けた言葉でもあった。


 歩き出す。


 青空の下へ。


 家族の待つ場所へ。


 未来へ。


 その背中を見送りながら。


 黒猫が朔弥の足元へ来る。


 金色の瞳が見上げる。


 朔弥は小さく笑った。


「少し軽くなった顔でしたね」


 黒猫は静かに目を細める。


 そして二人は館の中へ戻っていく。


 書斎の本棚には。


 新しい一冊が加わることになる。


 その背表紙には。


 『神崎 蓮』


 と刻まれていた。


 そしてその奥。


 誰にも読まれていない一冊の本が、


 今日も静かに眠っていた。


 いつか。


 その物語が開かれる日を待ちながら。



雨は上がった。


けれど人の心には、すぐには晴れない空もある。


それでも夜想館を訪れた人々は、少しだけ軽くなった荷物を抱えて、また未来へ歩いていくのだった。

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