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夜想館  作者: 灯野 しおん
第四夜

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26/68

時雨 ― 神崎蓮⑤

夕暮れの公園だった。


 オレンジ色に染まる空。


 風に揺れるブランコ。


 どこかの家から漂う夕飯の匂い。


 蓮は少し離れた場所に立っている。


 幼い自分と父を見つめながら。


 父はまだ若かった。


 髪も黒く。


 背筋も真っ直ぐだった。


 仕事帰りなのだろう。


 スーツ姿のまま公園へ来ている。


 幼い蓮はうつむいていた。


 今になって思い出す。


 あの日。


 野球の試合で負けた日だった。


 エラーをしてしまった。


 最後の最後で。


 自分のミスで負けた。


 悔しくて。


 情けなくて。


 泣きそうだった。


「ごめんなさい」


 幼い蓮が言う。


「何がだ」


 父が聞き返す。


「負けた」


 小さな声。


 父はしばらく黙っていた。


 そして。


 大きな手で蓮の頭を撫でた。


「よく頑張ったな」


 蓮の心臓が止まりそうになる。


 その言葉を。


 忘れていた。


 いや。


 覚えていたはずなのに。


 もっと強い怒りや悲しみの中に埋もれてしまっていた。


「よく頑張ったな」


 父はもう一度言う。


「悔しいなら次がある」


「逃げなかったならそれでいい」


 夕焼けの光が二人を包む。


 幼い自分は泣いていた。


 でも。


 安心した顔で。


 泣いていた。


 蓮は立ち尽くす。


 胸が苦しい。


 こんな記憶があった。


 確かにあった。


 なのに。


 どうして忘れていたのだろう。



 景色が変わる。


 今度は高校生の頃だった。


 進路希望の紙。


 居間のテーブル。


 父と向かい合って座っている。


 空気は重い。


 あの日だ。


 大喧嘩をした日。


 蓮は営業職を希望していた。


 父は公務員を勧めた。


 ぶつかった。


 怒鳴り合った。


 何日も口をきかなかった。


 今でも鮮明に覚えている。


 だが。


 今の蓮は、その場の外側から見ている。


 だから見えた。


 父の顔が。


 怒っていると思っていた。


 だが違った。


 不安そうだった。


 心配そうだった。


 ただ。


 それをうまく言葉にできなかっただけだった。


「安定した方がいい」


 父は言う。


「心配なんだ」


 その後の言葉は、


 当時の蓮には届かなかった。


 怒鳴り声しか聞こえなかった。


 でも今なら分かる。


 あれは支配ではなく。


 不器用な愛情だったのだと。



 景色がまた揺らぐ。


 そして最後に現れたのは。


 病室だった。


 静かな病室。


 白い天井。


 窓から差し込む夕暮れの光。


 ベッドの上には父がいた。


 痩せていた。


 小さくなっていた。


 蓮は息を呑む。


 ここだけは知らない。


 来なかったから。


 逃げたから。


 見ることのなかった最後の時間。


 父は窓の外を見ていた。


 そして。


 小さく呟く。


「蓮は元気かな」


 その声は。


 蓮の知る父の声ではなかった。


 弱く。


 寂しく。


 そして。


 優しかった。


「会いたいな」


 その一言が。


 蓮の胸を深く貫いた。


 父は最後まで怒っていたわけではなかった。


 恨んでもいなかった。


 ただ。


 息子に会いたかったのだ。


 それだけだった。


 ベッドの上の父がゆっくり目を閉じる。


 その姿が光に溶け始める。


 そして。


 最後に振り返った。


 まるで今の蓮が見えているかのように。


 そして。


 少し照れくさそうに笑った。


「ありがとうな」


 その言葉と共に。


 景色は白く溶けていった。


 時雨はもう降っていなかった。


 夜明けが近づいていた。

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