時雨 ― 神崎蓮⑤
夕暮れの公園だった。
オレンジ色に染まる空。
風に揺れるブランコ。
どこかの家から漂う夕飯の匂い。
蓮は少し離れた場所に立っている。
幼い自分と父を見つめながら。
父はまだ若かった。
髪も黒く。
背筋も真っ直ぐだった。
仕事帰りなのだろう。
スーツ姿のまま公園へ来ている。
幼い蓮はうつむいていた。
今になって思い出す。
あの日。
野球の試合で負けた日だった。
エラーをしてしまった。
最後の最後で。
自分のミスで負けた。
悔しくて。
情けなくて。
泣きそうだった。
「ごめんなさい」
幼い蓮が言う。
「何がだ」
父が聞き返す。
「負けた」
小さな声。
父はしばらく黙っていた。
そして。
大きな手で蓮の頭を撫でた。
「よく頑張ったな」
蓮の心臓が止まりそうになる。
その言葉を。
忘れていた。
いや。
覚えていたはずなのに。
もっと強い怒りや悲しみの中に埋もれてしまっていた。
「よく頑張ったな」
父はもう一度言う。
「悔しいなら次がある」
「逃げなかったならそれでいい」
夕焼けの光が二人を包む。
幼い自分は泣いていた。
でも。
安心した顔で。
泣いていた。
蓮は立ち尽くす。
胸が苦しい。
こんな記憶があった。
確かにあった。
なのに。
どうして忘れていたのだろう。
◇
景色が変わる。
今度は高校生の頃だった。
進路希望の紙。
居間のテーブル。
父と向かい合って座っている。
空気は重い。
あの日だ。
大喧嘩をした日。
蓮は営業職を希望していた。
父は公務員を勧めた。
ぶつかった。
怒鳴り合った。
何日も口をきかなかった。
今でも鮮明に覚えている。
だが。
今の蓮は、その場の外側から見ている。
だから見えた。
父の顔が。
怒っていると思っていた。
だが違った。
不安そうだった。
心配そうだった。
ただ。
それをうまく言葉にできなかっただけだった。
「安定した方がいい」
父は言う。
「心配なんだ」
その後の言葉は、
当時の蓮には届かなかった。
怒鳴り声しか聞こえなかった。
でも今なら分かる。
あれは支配ではなく。
不器用な愛情だったのだと。
◇
景色がまた揺らぐ。
そして最後に現れたのは。
病室だった。
静かな病室。
白い天井。
窓から差し込む夕暮れの光。
ベッドの上には父がいた。
痩せていた。
小さくなっていた。
蓮は息を呑む。
ここだけは知らない。
来なかったから。
逃げたから。
見ることのなかった最後の時間。
父は窓の外を見ていた。
そして。
小さく呟く。
「蓮は元気かな」
その声は。
蓮の知る父の声ではなかった。
弱く。
寂しく。
そして。
優しかった。
「会いたいな」
その一言が。
蓮の胸を深く貫いた。
父は最後まで怒っていたわけではなかった。
恨んでもいなかった。
ただ。
息子に会いたかったのだ。
それだけだった。
ベッドの上の父がゆっくり目を閉じる。
その姿が光に溶け始める。
そして。
最後に振り返った。
まるで今の蓮が見えているかのように。
そして。
少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうな」
その言葉と共に。
景色は白く溶けていった。
時雨はもう降っていなかった。
夜明けが近づいていた。




