時雨 ― 神崎蓮④
焼き魚の香り。
味噌汁の湯気。
暖炉の火。
そのすべてが、遠い記憶を少しずつ解いていく。
父が笑っていた日。
そんなものはないと思っていた。
いや。
思い出したくなかったのかもしれない。
怒り続けている方が楽だった。
許さなくて済むから。
傷ついた自分を守れるから。
蓮は黙って食事を続ける。
朔弥は何も言わない。
ただ少し離れた場所でサイフォンを見守っている。
ガラスの中で珈琲がゆっくりと移り変わる。
ぽこり。
小さな音。
まるで時間が溶けていくみたいだった。
「父は」
蓮がぽつりと呟く。
「仕事人間でした」
朔弥は静かに耳を傾ける。
「家にいても仕事の話ばかりで」
「休日も疲れていて」
「怖かったですね」
苦笑する。
「今思うと、娘からもそう思われてるかもしれません」
その言葉に。
朔弥は少しだけ目を細めた。
「似ていますか」
「たぶん」
蓮は笑った。
寂しそうな笑顔だった。
「認めたくなかったんですけどね」
父に似ているなんて。
ずっと嫌だった。
けれど。
娘が生まれて。
仕事に責任を持つようになって。
気づけば。
父と同じような顔をしている自分がいた。
その時。
サイフォンの火が消えた。
静かに。
珈琲が下へ落ちていく。
朔弥はカップへ注ぎながら言った。
「人は案外」
蓮が顔を上げる。
「理解できるようになった頃には、相手がいないものです」
静かな言葉だった。
どこか遠くを見るような声。
蓮はなぜか胸が締め付けられた。
それは父のことだけではない気がした。
朔弥自身もまた、
誰かに対してそう思っているように聞こえたから。
◇
その夜。
客室へ戻った蓮は、
すぐに眠りへ落ちた。
雨音が遠くなる。
意識が沈む。
そして。
気づくと。
見覚えのある場所に立っていた。
夕暮れの公園だった。
オレンジ色の空。
古いブランコ。
小さな滑り台。
「ここ……」
知っている。
小学生の頃。
父と来た公園だ。
懐かしい風が吹く。
遠くで子どもたちが遊んでいる。
その中に。
一人の少年がいた。
ランドセルを背負った男の子。
少し泣きそうな顔。
それは。
幼い頃の自分だった。
そして。
その隣に立つ男。
背広姿。
少し不器用そうな立ち姿。
父だった。
若い頃の父だった。
蓮の呼吸が止まる。
父はまだこちらに気づいていない。
ただ。
少年の自分に何か話している。
夕焼けの中で。
穏やかな顔をして。
蓮が知らなかった父の顔で。
その光景を見た瞬間。
胸の奥で何かが静かに軋んだ。
忘れていた記憶が。
これから少しずつ開かれていく。
時雨の夜の向こうで。
父が本当に伝えたかった言葉と共に。




