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夜想館  作者: 灯野 しおん
第四夜

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時雨 ― 神崎蓮③

夕食の時間まで、まだ少しあった。


 蓮は部屋の椅子に腰掛けていたが、落ち着かなかった。


 窓の外では相変わらず時雨が降っている。


 静かな宿だった。


 静かすぎて。


 普段なら考えないことまで考えてしまう。


 父のことを思い出す。


 厳しい人だった。


 小学生の頃。


 テストで九十八点を取った時。


「あと二点だったな」


 そう言われた。


 中学で部活の大会に出た時。


「もっと上を目指せ」


 そう言われた。


 高校受験。


 大学受験。


 就職。


 いつも。


 もっと。


 まだ。


 足りない。


 そんな言葉ばかりだった。


「褒められたことなんて……」


 呟いて。


 言葉が止まる。


 本当にそうだっただろうか。


 思い出せない。


 怒られた記憶ばかり鮮明で。


 それ以外が霞んでいる。


 その時。


 からん、と遠くでベルが鳴った。


 夕食の時間らしい。



 食堂には暖炉の火が揺れていた。


 木のテーブル。


 ランプの灯り。


 そして。


 目の前に並んだ料理を見た瞬間。


 蓮は眉をひそめた。


「……なんだよ」


 思わず声が漏れる。


 焼き魚。


 筑前煮。


 ほうれん草のお浸し。


 味噌汁。


 漬物。


 白いご飯。


 どれも。


 父が好きだった料理だった。


 忘れようとしても忘れられない。


 実家の食卓に並んでいたものばかり。


「お気に召しませんでしたか」


 朔弥が静かに尋ねる。


 蓮は箸を置いた。


「なんでですか」


 少し強い口調だった。


「なんで父親の好きな物ばかりなんです」


 食堂が静かになる。


 暖炉の薪が小さく音を立てた。


 朔弥は慌てない。


 怒りもしない。


 ただ静かに珈琲の準備を始める。


 サイフォンへ湯を注ぐ。


 ぽこぽこ、と小さな音。


 その音だけが響く。


「嫌いな人だったんですね」


 朔弥が言った。


 蓮は即答する。


「嫌いでした」


 迷いなく。


 何年も胸に抱えてきた言葉だった。


「今も?」


 その問いに。


 なぜか返事が出なかった。


 今も嫌いか。


 そう聞かれると。


 分からなかった。


 怒りはある。


 後悔もある。


 でも。


 嫌いなのだろうか。


 蓮は黙り込む。


 朔弥は追及しない。


 ただ珈琲を淹れ続ける。


 やがて。


 蓮は小さく息を吐いた。


「……分かりません」


 初めて本音だった。


「そうですか」


 朔弥はそれだけ言った。


 否定もしない。


 慰めもしない。


 だからこそ。


 その言葉は不思議と胸に残った。



 蓮は箸を手に取る。


 焼き魚を口へ運ぶ。


 その瞬間。


 記憶が蘇った。


 まだ小学生だった頃。


 休日の朝。


 父が魚を焼いていた。


 母が風邪を引いて寝込んでいた日だった。


 慣れない手つき。


 少し焦げた魚。


 味噌汁は薄かった。


 それでも。


 父は得意そうに言った。


「男の料理だ」


 母が笑っていた。


 妹も笑っていた。


 自分も。


 笑っていた。


「……あ」


 蓮は箸を止める。


 忘れていた。


 こんな記憶。


 ずっと。


 怒りばかり見ていたから。


 父が笑っていた記憶を。


 自分で閉じ込めていたのかもしれない。


 暖炉の火が揺れる。


 時雨はまだ降っている。


 そしてその夜。


 蓮は少しずつ。


 父との本当の記憶へ近づいていくことになる。

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