時雨 ― 神崎蓮③
夕食の時間まで、まだ少しあった。
蓮は部屋の椅子に腰掛けていたが、落ち着かなかった。
窓の外では相変わらず時雨が降っている。
静かな宿だった。
静かすぎて。
普段なら考えないことまで考えてしまう。
父のことを思い出す。
厳しい人だった。
小学生の頃。
テストで九十八点を取った時。
「あと二点だったな」
そう言われた。
中学で部活の大会に出た時。
「もっと上を目指せ」
そう言われた。
高校受験。
大学受験。
就職。
いつも。
もっと。
まだ。
足りない。
そんな言葉ばかりだった。
「褒められたことなんて……」
呟いて。
言葉が止まる。
本当にそうだっただろうか。
思い出せない。
怒られた記憶ばかり鮮明で。
それ以外が霞んでいる。
その時。
からん、と遠くでベルが鳴った。
夕食の時間らしい。
◇
食堂には暖炉の火が揺れていた。
木のテーブル。
ランプの灯り。
そして。
目の前に並んだ料理を見た瞬間。
蓮は眉をひそめた。
「……なんだよ」
思わず声が漏れる。
焼き魚。
筑前煮。
ほうれん草のお浸し。
味噌汁。
漬物。
白いご飯。
どれも。
父が好きだった料理だった。
忘れようとしても忘れられない。
実家の食卓に並んでいたものばかり。
「お気に召しませんでしたか」
朔弥が静かに尋ねる。
蓮は箸を置いた。
「なんでですか」
少し強い口調だった。
「なんで父親の好きな物ばかりなんです」
食堂が静かになる。
暖炉の薪が小さく音を立てた。
朔弥は慌てない。
怒りもしない。
ただ静かに珈琲の準備を始める。
サイフォンへ湯を注ぐ。
ぽこぽこ、と小さな音。
その音だけが響く。
「嫌いな人だったんですね」
朔弥が言った。
蓮は即答する。
「嫌いでした」
迷いなく。
何年も胸に抱えてきた言葉だった。
「今も?」
その問いに。
なぜか返事が出なかった。
今も嫌いか。
そう聞かれると。
分からなかった。
怒りはある。
後悔もある。
でも。
嫌いなのだろうか。
蓮は黙り込む。
朔弥は追及しない。
ただ珈琲を淹れ続ける。
やがて。
蓮は小さく息を吐いた。
「……分かりません」
初めて本音だった。
「そうですか」
朔弥はそれだけ言った。
否定もしない。
慰めもしない。
だからこそ。
その言葉は不思議と胸に残った。
◇
蓮は箸を手に取る。
焼き魚を口へ運ぶ。
その瞬間。
記憶が蘇った。
まだ小学生だった頃。
休日の朝。
父が魚を焼いていた。
母が風邪を引いて寝込んでいた日だった。
慣れない手つき。
少し焦げた魚。
味噌汁は薄かった。
それでも。
父は得意そうに言った。
「男の料理だ」
母が笑っていた。
妹も笑っていた。
自分も。
笑っていた。
「……あ」
蓮は箸を止める。
忘れていた。
こんな記憶。
ずっと。
怒りばかり見ていたから。
父が笑っていた記憶を。
自分で閉じ込めていたのかもしれない。
暖炉の火が揺れる。
時雨はまだ降っている。
そしてその夜。
蓮は少しずつ。
父との本当の記憶へ近づいていくことになる。




