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夜想館  作者: 灯野 しおん
第四夜

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23/68

時雨ー神崎蓮②

「ようこそ」


 穏やかな声だった。


 蓮が顔を上げる。


 受付の奥には一人の青年が立っていた。


 白いシャツ。


 黒いベスト。


 整った立ち姿。


 年齢は二十代後半にも見えるし、三十代にも見える。


 不思議な人だった。


「宿……ですか?」


「はい」


 青年は微笑む。


「夜想館と申します」


「予約なんてしてませんが」


「大丈夫ですよ」


 あっさりした返事だった。


 まるで当然のように。


 蓮は周囲を見回す。


 暖炉。


 木の柱。


 ランプの灯り。


 静かな空気。


 ホテルとも旅館とも違う。


 古い洋館のような場所だった。


「今夜のお客様はお一人です」


 青年は宿帳を開く。


 ぱたん。


 重みのある音がした。


 レトロな蔦模様の縁取り。


 万年筆。


 少し黄ばんだ紙。


「お名前を」


 蓮は万年筆を受け取る。


 そして。


 神崎 蓮


 と書いた。


 インクがゆっくり紙へ染み込んでいく。


 その瞬間。


 なぜだろう。


 胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。


「神崎様」


 青年は静かに頭を下げる。


「私は朔弥と申します」


「神崎です」


 簡単な挨拶を交わす。


 その時だった。


 黒猫が受付の上へ飛び乗った。


「うわっ」


 蓮は思わず声を上げる。


 猫は平然としていた。


 金色の瞳でこちらを見ている。


「案内役なんですよ」


 朔弥が言う。


「案内役?」


「時々お客様を連れてきてくれます」


 蓮は猫を見る。


 猫も蓮を見る。


 しばらく見つめ合う。


「……なるほど」


「信じていませんね」


「ええ」


 蓮は即答した。


 朔弥は小さく笑う。


 それだけだった。


 否定もしない。


 説明もしない。


 その距離感が妙に心地良かった。



 客室へ案内される。


 廊下には柔らかな灯りが並んでいる。


 古い木の床。


 歩くたびに小さく軋む。


「落ち着く場所ですね」


 思わず口に出た。


 朔弥が少し驚いたように振り返る。


「そうですか」


「ええ」


 蓮は自分でも不思議だった。


 初めて来た場所なのに。


 まるで昔から知っている場所みたいだった。


 朔弥は少しだけ微笑む。


「そう感じていただけるなら嬉しいです」


 やがて客室へ到着する。


 木の扉。


 真鍮の取っ手。


「夕食は七時半に食堂でご用意いたします」


「ありがとうございます」


 朔弥は軽く頭を下げる。


 そして去っていく。


 廊下の先で黒猫が待っていた。


 いつの間に来たのか。


 朔弥の足元を歩いている。


 その姿を見送りながら。


 蓮は部屋へ入った。


 窓の外では時雨が降っている。


 細く。


 静かに。


 まるで忘れた記憶を呼び起こすように。


 蓮は窓辺へ立った。


 雨を見つめる。


 そして。


 ふと。


 父のことを思い出していた。


 怒鳴り声ばかりだった父。


 怖かった父。


 認めてくれなかった父。


 けれど。


 その記憶の奥に。


 何かもう一つ。


 忘れているものがあるような気がした。


 窓ガラスに雨粒が流れる。


 その夜。


 神崎蓮が向き合うのは、


 父への怒りだけではなかった。


 忘れてしまった、


 父との温かな記憶だった。

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