時雨ー神崎蓮②
「ようこそ」
穏やかな声だった。
蓮が顔を上げる。
受付の奥には一人の青年が立っていた。
白いシャツ。
黒いベスト。
整った立ち姿。
年齢は二十代後半にも見えるし、三十代にも見える。
不思議な人だった。
「宿……ですか?」
「はい」
青年は微笑む。
「夜想館と申します」
「予約なんてしてませんが」
「大丈夫ですよ」
あっさりした返事だった。
まるで当然のように。
蓮は周囲を見回す。
暖炉。
木の柱。
ランプの灯り。
静かな空気。
ホテルとも旅館とも違う。
古い洋館のような場所だった。
「今夜のお客様はお一人です」
青年は宿帳を開く。
ぱたん。
重みのある音がした。
レトロな蔦模様の縁取り。
万年筆。
少し黄ばんだ紙。
「お名前を」
蓮は万年筆を受け取る。
そして。
神崎 蓮
と書いた。
インクがゆっくり紙へ染み込んでいく。
その瞬間。
なぜだろう。
胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。
「神崎様」
青年は静かに頭を下げる。
「私は朔弥と申します」
「神崎です」
簡単な挨拶を交わす。
その時だった。
黒猫が受付の上へ飛び乗った。
「うわっ」
蓮は思わず声を上げる。
猫は平然としていた。
金色の瞳でこちらを見ている。
「案内役なんですよ」
朔弥が言う。
「案内役?」
「時々お客様を連れてきてくれます」
蓮は猫を見る。
猫も蓮を見る。
しばらく見つめ合う。
「……なるほど」
「信じていませんね」
「ええ」
蓮は即答した。
朔弥は小さく笑う。
それだけだった。
否定もしない。
説明もしない。
その距離感が妙に心地良かった。
◇
客室へ案内される。
廊下には柔らかな灯りが並んでいる。
古い木の床。
歩くたびに小さく軋む。
「落ち着く場所ですね」
思わず口に出た。
朔弥が少し驚いたように振り返る。
「そうですか」
「ええ」
蓮は自分でも不思議だった。
初めて来た場所なのに。
まるで昔から知っている場所みたいだった。
朔弥は少しだけ微笑む。
「そう感じていただけるなら嬉しいです」
やがて客室へ到着する。
木の扉。
真鍮の取っ手。
「夕食は七時半に食堂でご用意いたします」
「ありがとうございます」
朔弥は軽く頭を下げる。
そして去っていく。
廊下の先で黒猫が待っていた。
いつの間に来たのか。
朔弥の足元を歩いている。
その姿を見送りながら。
蓮は部屋へ入った。
窓の外では時雨が降っている。
細く。
静かに。
まるで忘れた記憶を呼び起こすように。
蓮は窓辺へ立った。
雨を見つめる。
そして。
ふと。
父のことを思い出していた。
怒鳴り声ばかりだった父。
怖かった父。
認めてくれなかった父。
けれど。
その記憶の奥に。
何かもう一つ。
忘れているものがあるような気がした。
窓ガラスに雨粒が流れる。
その夜。
神崎蓮が向き合うのは、
父への怒りだけではなかった。
忘れてしまった、
父との温かな記憶だった。




