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夜想館  作者: 灯野 しおん
第五夜

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29/68

夕立 ― 白石結衣

結婚式まで、あと三週間だった。


 白石結衣は駅のホームに立っていた。


 夕方。


 空は重たい雲に覆われている。


 六月の終わり。


 蒸し暑い風が吹いていた。


 スマートフォンが震える。


 画面には婚約者の名前。


 高橋優斗


 結衣は少しだけ躊躇してから通話ボタンを押した。


「もしもし?」


『仕事終わった?』


 優斗の明るい声。


 優しい人だ。


 真面目で。


 誠実で。


 嘘をつかない。


 結婚相手としては理想的だった。


『週末、家具見に行こうか』


「うん」


『ソファも決めないとね』


「うん」


『結衣?』


 声が少し心配そうになる。


「聞いてるよ」


『疲れてる?』


「ちょっとだけ」


 嘘だった。


 疲れているのではない。


 怖かった。


 ずっと。


 結婚が近づくほど。


 怖くなっていた。


 優斗は悪くない。


 何も悪くない。


 それなのに。


 胸の奥で何かが叫んでいる。


 本当にこのままでいいのか。


 本当に。


 この未来を選んでいいのか。


『また連絡するね』


「うん」


 通話が終わる。


 画面が暗くなる。


 結衣は自分の顔を映したスマートフォンを見つめた。


 笑えていない。


 幸せなはずなのに。


 なぜだろう。


 心が置いていかれている気がした。



 結衣には夢があった。


 昔。


 高校生の頃。


 世界を旅する写真家になりたかった。


 大学時代には海外へも行った。


 古いカメラを抱えて。


 知らない街を歩くのが好きだった。


 その頃は本気で思っていた。


 世界中を旅して生きていくのだと。


 けれど。


 現実は違った。


 就職して。


 仕事を覚えて。


 気づけば十年近く経っていた。


 夢は少しずつ遠ざかる。


 そして。


 優斗と出会った。


 穏やかな恋だった。


 幸せだった。


 だから結婚を決めた。


 誰も間違っていない。


 何も問題はない。


 それなのに。


 結婚式の日程が決まった頃から。


 胸の奥で眠っていた夢が、


 時々顔を出すようになった。


「本当にこれでいいの?」


 と。



 ぽつり。


 雨が落ちる。


 結衣は顔を上げた。


 次の瞬間。


 ざあっと雨脚が強くなる。


 夕立だった。


 突然の豪雨。


 駅前の人々が慌てて走り出す。


 結衣も屋根を探して歩き出した。


 しかし。


 気づけば知らない道へ入っていた。


 細い石畳。


 古い街灯。


 見覚えのない路地。


「こんな場所あったっけ……」


 その時だった。


 前方に黒い影が見えた。


 一匹の黒猫。


 濡れた石畳の上に座っている。


 金色の瞳。


 どこか見覚えがあるような。


 不思議な猫だった。


 猫は立ち上がる。


 そして。


 ゆっくり歩き始めた。


 まるで。


 こちらを案内するように。


 結衣はなぜか後を追っていた。


 雨音が遠くなる。


 石畳の先。


 木々の向こう。


 そこに。


 琥珀色の灯りが見えた。


 温かな光。


 雨の中で揺れている。


 そして。


 古い洋館。


 玄関脇のプレートには、


 静かに文字が刻まれていた。


 夜想館


 結衣は立ち止まる。


 その名前を見た瞬間。


 なぜだろう。


 胸の奥が少しだけ温かくなった。


 まるで。


 長い旅の途中で見つけた灯りのように。


 雨に濡れたまま。


 結衣はその扉へ手を伸ばした。


 からん――


 小さなベルが鳴る。


 珈琲の香り。


 暖かな空気。


 そして。


「ようこそ」


 穏やかな声が響く。


 未来を恐れる一人の女性の夜が、


 静かに始まろうとしていた。

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